ムワッヒド朝(読み)むわっひどちょう(英語表記)al-Muwaid

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムワッヒド朝」の意味・わかりやすい解説

ムワッヒド朝
むわっひどちょう
al-Muwaid

チュニジア以西の北アフリカとスペイン南部を支配したベルベル人最大の王朝(1130~1269)。スペイン語でアルモアデAlmohadeという。モロッコのアンティ・アトラス山中のベルベル人イブン・トゥーマルトは、バグダードやカイロなど東方旅行から帰ると、宗教と道徳の改革とムラービト朝打倒とに力を注ぐ宗教的、政治的運動(ムワッヒド運動)を始め、国家的組織(アルモハード・ヒエラルキー)をつくった。彼の死後、弟子の1人アブド・アルムーミンが後継者に指名され、オート・アトラス山中のティーン・マッラルを都として王朝を創始した。彼は1145年にイベリア半島軍隊を派遣し、まもなく半島南部を支配した。1147年にはムラービト朝を倒し、都をマラケシュに移した。マラケシュはキャラバン交易や手工業によって発展し、またカリフの学芸奨励、学者招請によって学問や文化も栄えた。哲学者イブン・トゥファイル(アブバケル)は宮廷医として、またイブン・ルシュド(アベロエス)はセビーリャやコルドバの法官を務め、一時期宮廷医としても仕えた。首都の壮麗なクトゥビーヤ・モスクはこの王朝下の建築技術の粋を集めたものである。

 政治的機構の基本は、イブン・トゥーマルトが創始した職能別の政治的、軍事的組織であるアルモハード・ヒエラルキーの発展したものであり、建国部族たるマスムーダ部族が他のベルベル諸部族を支配する形をとった。支配層内部の対立抗争、マスムーダに比して宗教的情熱に乏しい諸集団(アラブ、ザナータ、トルコ系のグズ、黒人奴隷兵など)の役割の増大と彼らの反抗、レコンキスタ運動の強化によるナバス・デ・トロサの戦い(1212)での敗北などにより衰退し、1269年マリーン朝に滅ぼされた。この王朝の下で、農村部のイスラム化とモロッコのアラブ化が進んだ。またスーフィズムの発展も著しかった。

[私市正年]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムワッヒド朝」の意味・わかりやすい解説

ムワッヒド朝
ムワッヒドちょう
al-Muwahhid

北アフリカとスペイン南部を支配したイスラム王朝 (1130~1269) 。ヨーロッパではアルモハド朝 Almohadsの名で知られている。始祖ムハンマド・イブン・トゥーマルトで,みずからマフディー (救世主) と称して宗教運動を組織し,ベルベル人の間に信者を得た。彼の後継者アブドゥル・ムーミン (在位 1130~63) は信徒を率い,ムラービト朝を滅ぼして,勢力を北アフリカ全土に広げ,王朝にまで発展させた。 12世紀後半には領土はエジプト以西の北アフリカ一帯とスペイン南部に及び,モロッコのマラケシュ (マルラーケシュ) を首都にしたが,一時,スペインのセビリアを首都にしたこともあった。 13世紀に入ると勢力は次第に弱まり,スペインではキリスト教諸国に敗戦を重ね,最後はモロッコのマリーン朝に滅ぼされた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ムワッヒド朝」の解説

ムワッヒド朝
ムワッヒドちょう
al- Muwahhidūn

1130〜1269
アフリカ大陸北西端のモロッコにおこったベルベル人のイスラーム王朝
1147年ムラービト朝を滅ぼし,マラケシュを首都とした。チュニジア・イベリア半島にまで勢力をのばし,首都をセビリャに移した。キリスト教勢力におされてセビリャを奪われて後退し,滅亡

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世界大百科事典 第2版 「ムワッヒド朝」の意味・わかりやすい解説

ムワッヒドちょう【ムワッヒド朝 al‐Muwaḥḥid】

チュニジア以西の北アフリカとイベリア半島南部を支配したベルベル最大の王朝。1130‐1269年。スペイン語ではアルモアデAlmohade。創始者アブド・アルムーミン‘Abd al‐Mu’min(在位1130‐63)は,イブン・トゥーマルトの宗教運動を基礎に,アトラス山中の定着民マスムーダ族を率いてアトラス山中のティーンマッラルに建国した。1145年にはイベリア半島に軍隊を派遣,間もなく半島南部を支配し,47年にはムラービト朝を倒し,都をマラケシュに移した。

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世界大百科事典内のムワッヒド朝の言及

【アフリカ】より

…その際,ベルベルと総称される北アフリカのハム系先住民のうちには,新来文化に反抗しつづけた集団もあった反面,イスラムの熱狂的な信奉者も多く生まれ,それが勢力拡張も崩壊も迅速な〈帝国〉の成立を容易にした。10世紀はじめにアルジェリアに発し,100年足らずのうちにマグリブの大部分とアッバース朝のエジプト,シリアまで勢力下におさめ,やがてカイロを都としたファーティマ朝や,11世紀に西サハラ南縁のベルベルの熱狂的な信徒集団がもとになって,西サハラ,モロッコからイベリア半島の南東部まで版図を拡大したムラービト朝,その後,モロッコ南部のベルベルの宗教改革運動を端緒として,モロッコからエジプトまで北アフリカ全体を勢力下におさめたムワッヒド朝(1130‐1269)などがそのよい例である。これに対し,東アフリカ海岸へのイスラム・アラブの渡来は,季節風を利用した船によるアラビア半島との往来を基盤としたもので,武力支配でなく交易を目的としたものであり,モガディシュ,ザンジバルキルワソファラなどの港町に交易拠点がつくられた。…

【マグリブ】より

…同じくアラブは,ラテン語のアフリカに由来するイフリーキーヤの語も用いたが,それは,9世紀にアグラブ朝がチュニジアに建国されて以降,しだいにリビア西部からアルジェリア東部までの地域内,つまりマグリブ東部を指すようになった。また,リビア西部のトリポリタニア地方は,ムワッヒド朝やハフス朝の支配下に入った時期もあったが,その統治は不安定であり,常に半独立的状態にあったといってよい。したがって,広義のマグリブが本来の〈西方〉という意味に近い範囲を示すのに対し,狭義のそれは歴史的過程を経て形成された概念となっている。…

※「ムワッヒド朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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