ムハンマドアフマド(英語表記)Muḥammad Aḥmad

改訂新版 世界大百科事典 「ムハンマドアフマド」の意味・わかりやすい解説

ムハンマド・アフマド
Muḥammad Aḥmad
生没年:1844ころ-85

スーダンマフディー運動の指導者,マフディー派の創始者。ドゥンクラー(ドンゴラ)の船大工の子で,シャリーフ家系といわれる。1881年アバ島でマフディーたることを宣言,ヨーロッパオスマン帝国エジプトなどの諸勢力に対しジハード運動を急速に拡大した。エジプト軍を各地で破り,85年救援のゴードン将軍の率いるイギリス軍をハルトゥームに全滅させたが,マフディー国家建設の途上で病死した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のムハンマドアフマドの言及

【オムドゥルマン】より

…人口23万(1993),大都市域人口127万(1993)。白ナイルをはさんで首都ハルツームの北の対岸にあり,1885年マフディー派の軍を率いたムハンマド・アフマドが都として建設した。行政・経済の中心地ハルツームと対照的にスーダンの伝統を伝える文化的・精神的中心地となっている。…

【スーダン】より

…それは,資本主義時代の原料獲得のための植民地経営の幕開けであった。 エジプト圧制下の住民の危機的状況のなかで,スーフィーのムハンマド・アフマドは,イスラムの危機がシャリーアの施行に責任を負うはずのオスマン帝国やエジプトの権力によって導入されていると受け止め,エジプト占領体制を打破してシャリーアを施行し,イスラムの革新を図ろうと考えた。81年,ムハンマド・アフマドのマフディー宣言とともに開始されたマフディー反乱を通じて,終末論的なジハードを目ざす教団国家を形成,85年エジプト占領を完全に駆逐した。…

【マフディー】より

…カイサーン派の隠れメシアの観念はシーア派にも受け入れられ,十二イマーム派は第12代目イマームのムハンマド・アルムンタザルが隠れメシアになったと信じ,イスマーイール派は別の隠れイマームの血統を継ぐマフディーが再臨してファーティマ朝を開いたと主張した。イスラムにおける終末論的マフディー思想の伝統は根強く,ムワッヒド運動におけるイブン・トゥーマルトマフディー派運動におけるムハンマド・アフマド,1979年11月のメッカのカーバ襲撃事件におけるカフターニーなど,激しい抗議と抵抗運動の際,しばしばマフディーと称する者が活躍する。【嶋田 襄平】。…

※「ムハンマドアフマド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android