ムスタファー・カーミル(読み)むすたふぁーかーみる(英語表記)Muafā Kāmil

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムスタファー・カーミル」の意味・わかりやすい解説

ムスタファー・カーミル
むすたふぁーかーみる
Muafā Kāmil
(1874―1908)

近代エジプト民族主義者。アラービーの反乱(1879~1882)がイギリスの武力介入によって挫折(ざせつ)したのち、エジプト民族主義運動は下火となり、イギリス総領事クローマー卿(きょう)のもとでエジプトの実質的植民地化が進行した。こうした時代環境にあって、フランス留学中に反英サークルに参加、1895年のエジプト帰国後、国民党(アル・ヒズブ・アル・ワタニー)を結成、その政治信条の宣伝手段として日刊紙『リワー』(旗)を創刊(1900)することによって、エジプト民族主義運動を再組織し、エジプト独立運動の旗手となった。日露戦争(1904~1905)における日本の勝利に際して、極東の国、日本との連帯をうたい上げた著作『東方の太陽』は有名である。34歳の若さで死亡したが、彼の主張はムハンマド・ファリードに受け継がれたのち、第一次世界大戦後の国民的独立運動であるワフド党運動として結実した。

加藤 博]

『護雅夫著『イスラム世界近代化の歩み』(『講座 東洋思想7 イスラムの思想』所収・1967・東京大学出版会)』『アンワール・アブデルマレク著、熊田亨訳『民族と革命』(1977・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「ムスタファー・カーミル」の意味・わかりやすい解説

ムスタファー・カーミル

エジプトの民族主義者。1891年カイロの法律学校を卒業してパリに遊学。帰国後,アフマド・アラービー大佐の指導した外国支配の排除をめざすアラービー運動の挫折で低迷していた民族運動の再建に尽力した。1900年日刊紙《リワー》を発刊して,エジプト人の権利と利益を守るべく,英国占領の即時撤廃を提起し民族感情を鼓舞した。1906年デンシワーイ村に鳩撃ちに来た英国兵士の死をめぐり,多数のエジプト農民がみせしめのため絞首刑にされた事件が起きると,英国による占領を糾弾するキャンペーンを国際的に展開し,英国と対立するフランスやオスマン帝国との関係緊密化を図った。国内では英国の統治者クローマー伯と対立するエジプト王アッバース・ヒルミー2世と協力関係をとり,1907年には都市の知識人や商人,学生らを基盤として大衆的な政党ワタン党を結成,占領体制を攻撃した。一方ではエジプト国民の教育の重要性をも訴えている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムスタファー・カーミル」の意味・わかりやすい解説

ムスタファー・カーミル
Muṣtafā Kāmil

[生]1874. カイロ
[没]1908.2.10. カイロ
エジプトの民族主義思想家,政治家。フランス留学ののち,1891年頃からカイロで民族主義を説いて反英活動を指導した。新聞『アル・リワー (旗) 』を創刊して政治評論を行う一方で,雑誌『イスラム世界』でヨーロッパイスラム学を紹介し,近代社会でのイスラムのあり方を追究した。 1907年に親英派の革新党に対抗して「国民党」を組織したが,翌年 34歳の若さで病死した。その葬儀には多数のカイロ市民が参列した。彼の遺志を継いでカイロ大学が創立された。

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