ミル(John Stuart Mill)(読み)みる(英語表記)John Stuart Mill

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ミル(John Stuart Mill)
みる
John Stuart Mill
(1806―1873)

イギリスの哲学者、政治学者、経済学者。功利主義思想家ジェームズ・ミルの長男としてロンドンに生まれる。父親から並はずれた早教育を受け、3歳でギリシア語を、8歳でラテン語を教えられ、それを基礎に膨大な歴史書や文学に親しんだ。12歳ごろからは、勉学の範囲が哲学、論理学、政治学、経済学にまで広げられ、思想内容にまで立ち入った討論が、父親と続けられたという。14歳のとき1年余り渡仏、初めてスポーツをしたり、山々の自然に親しみ、とくに後者は生涯の趣味となった。15歳で帰国後、ベンサム主義の著作である、デュモンPierre Étienne Louis Dumont(1759―1829)の『立法論』を読んだことが契機となって、功利主義思想家としてたつ決意をする。1822年には、ベンサム主義を研究するため、友人たちと「功利主義者協会」を結成、『モーニング・クロニクル』や『ウェストミンスター評論』などへの寄稿活動を行った。また翌1823年、父と同じく東インド会社に奉職、その後同社が解散されるまで35年間勤務した。

 しかし、功利主義思想普及のための活動は長くは続かなかった。『ミル自伝』(1873)で回顧しているように、20歳の秋、彼は何事にも快感を覚えず、功利主義的改革にも情熱を感じることのない「精神の危機」を体験した。この危機は彼に、人間の内的教養を充実させるところの、自然との交流や詩・芸術の重要性に気づかせ、これらを軽視してきた旧来の功利主義思想を修正する必要を痛感させたのであった。彼は、ロマン主義の系譜にたつS・T・コールリッジやT・カーライルの著作を読みあさり、政治制度の相対性や歴史性といった主張に半面の真理を認めるようになり、またフランスのサン・シモン派やA・コントなどとの交友を通じて、自然科学と社会科学の差異、あるいは私有財産制度やそれを絶対的なものと前提する旧来の経済学の限界に思い至った。新しい思想構築に向けて模索を続けていた彼は、1830年、のちに妻となるテーラーHarriet Taylor(1807―1858)夫人に出会う。夫人はその美しさと知的教養によって、その後のミルの人生の支えとなるが、ミルの思想内容にまで影響するところがあったかどうかは、研究者の間で見解が分かれている。ともかく、彼の新しい思想は、『ロンドン評論』のちには『ロンドン・ウェストミンスター評論』への寄稿となって現れたが、とりわけ「ベンサム論」(1838)、「コールリッジ論」(1840)は、ミルの思想転換のいちおうの総決算を示すものとして知られる。彼は、ベンサム主義を18世紀啓蒙(けいもう)思想の典型として評価しながらも、それに対する19世紀的反動たるコールリッジにも一定の評価を与えるという、功利主義修正の立場を確立したのであった。

 1843年には『論理学体系』を完成、社会科学は、ベンサム主義の用いる「直接的演繹(えんえき)法」のみならず、具体的な歴史の観察から経験法則を引き出し、それを人間性の法則に基づく演繹によって検証する「逆の演繹法」も広く利用されなければならないと主張した。さらに、革命運動がヨーロッパに吹き荒れた1848年に出版された『経済学原理』においては、私有財産制度と競争に立脚する経済を当然の前提にしてきた旧来の経済学に対して、分配のあり方は人為的・歴史的なものだとして、共有財産制度(共産主義)や、慣習によって分配が行われていた先資本制経済を問題にし、また経済進歩における国民性の差異という見地を導入するなど、大胆な古典派経済学の修正を試みた。

 1851年未亡人となったテーラー夫人と結婚、世間からは祝福されず、また7年半という短い期間ではあったが、ミルは精神的に充実した日々を送り、1854年には『自由論』を執筆した(1859出版)。『自由論』は、諸個人の自由の保障として夢想された民主主義が、結果的には「多数者の専制」をもたらし、諸個人は平均化され没個性的になり、自由は圧迫され、人間性の危機の時代が訪れているという警世の書であった。ミルは、人間精神の自由と個性に最大の価値を置き、この観点から、『経済学原理』においても、急速な経済発展の時期よりも人々が余暇を享受できる「停止状態」のほうが望ましいとし、また、共産主義と私有財産制度の是非も、どちらが人間の自由と個性を保障するのかという点から判定されなければならないと考えたのであった。

 1858年、妻を亡くす。晩年のミルは、下院議員(1866~1868)として、選挙権の拡張運動に取り組み、とりわけ女性に参政権を与えることを歴史上初めて提案した。議員を辞めてからは、妻の墓のあるフランスのアビニョンに移り住み、ときにロンドンに出かける生活をしながら、執筆活動を続け、南仏の自然と昆虫学者J・H・ファーブルとの交友のうちに、この地で亡くなった。著書としてほかに、『代議政体論』(1861)、『功利主義論』(1863)、『コントと実証主義』(1864)、『婦人の隷従(女性の解放)』(1869)、『社会主義論』(遺稿、1879)など多数ある。

[千賀重義 2015年7月21日]

『早坂忠他訳『世界の名著38 ベンサム、ミル』(1967・中央公論社)』『川名雄一郎・山本圭一郎訳『功利主義論集』(2010・京都大学学術出版会)』『J・S・ミル著、ヘレン・テイラー編、大久保正健訳『宗教をめぐる三つのエッセイ』(2011・勁草書房)』『朱牟田夏雄訳『ミル自伝』(岩波文庫)』『末永茂喜訳『経済学原理』全5冊(岩波文庫)』『大内兵衛他訳『女性の解放』(岩波文庫)』『山下重一著『J・S・ミルの思想形成』(1971・小峰書店)』『杉原四郎著『J・S・ミルと現代』(岩波新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android