ミリュコーフ(英語表記)Pavel Nikolaevich Milyukov

改訂新版 世界大百科事典 「ミリュコーフ」の意味・わかりやすい解説

ミリュコーフ
Pavel Nikolaevich Milyukov
生没年:1859-1943

ロシア歴史家政治家カデット立憲民主党)の領袖。モスクワ大学を卒業,1886年よりモスクワ大学講師としてロシア史を講じた。19世紀中葉のロシア歴史学界を支配した〈国家学派〉を継承しながら,コントスペンサーの社会学理論をとり入れて,主著《ロシア文化史概論》3部(1896-1903)を著した。ツァーリ政府の反動政策に対する批判を強めて,95年にモスクワ大学を解職された。以後10年間,主として国外で過ごし,一時期シカゴ大学教授をつとめた。1902年より自由主義派の政治誌《解放》の主要な寄稿者として政治活動に入り,05年にカデットを組織した。07年より国会議員,カデット党中央委員会議長。ロシアの危機は立憲君主制の確立と中道政治によって克服しうる,との立場に立ち,第1次世界大戦期における自由主義左派の登場に対しても,主流を堅持した。またロシア帝国主義の代弁者の役割を強め,その併合主義的主張のゆえに,〈ダーダネルスのミリュコーフ〉の異名をとった。17年の二月革命後,臨時政府の外相に就任し,〈勝利に終わるまでの戦争遂行〉政策をかかげ,そのために平和を要求する労働者兵士大衆の〈四月デモ〉によって退陣を余儀なくされた。十月革命後,南ロシアで反革命運動に加わり,20年ロンドン,ついでパリ亡命した。亡命後の著作に《第2次ロシア革命史》(1921-24),《転機に立つロシア》(1927)がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミリュコーフ」の意味・わかりやすい解説

ミリュコーフ
Milyukov, Pavel Nikolaevich

[生]1859.1.27. モスクワ
[没]1943.3.31. エクスレバン
ロシアの歴史家,政治家。モスクワ大学で,P.G.ビノグラドフ,V.O.クリュチェフスキーらに歴史を学ぶ。 1886年より同大学で教壇に立ったが,94年学生運動に関連してリャザンに流された。その後国外に出,ソフィア,シカゴ大学などでロシア史を講じるかたわら,欧米を広く旅行し,先進諸国の民主主義に触れた。第1次ロシア革命の起った 1905年帰国,「解放同盟」などにより活動。次いで「カデット」を組織,その機関紙『言論』 Rech'を編集するなど自由主義的改革を主張。第3,4国会議員。第1次世界大戦に際してはツァーリズム政府の無能無策をきびしく批判したが,戦争遂行そのものには賛成。 17年二月革命が起ると大公ミハイルへの権力委譲を申出るなど君主制の延命をはかったが失敗。革命後は臨時政府の外相に就任したが,戦争継続を連合国側に約束する5月1日 (旧暦4月 18日) 付きの覚え書がもとで,ペトログラードに大抗議行動が起り,5月 15日辞任。十月革命後は白衛軍と行動をともにし,20年より亡命。ロンドン,パリで亡命活動を続けたが,第2次世界大戦ではファシストと協力してソ連邦に対決したロシア人亡命者を批判した。『ロシア文化史概説』 Ocherki po istorii russkoi kul'tury (3巻,1896~1903) ,『第2次ロシア革命史』 Istoriya vtoroi russkoi revolyutsii (3巻,21~24) など多くのロシア史に関する著作を残した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミリュコーフ」の意味・わかりやすい解説

ミリュコーフ
みりゅこーふ
Павел Николаевич Милюков/Pavel Nikolaevich Milyukov
(1859―1943)

ロシアの歴史家、政治家。建築学の教授の子として生まれる。モスクワ大学歴史・哲学科を卒業後、1886年同大学のロシア史の講師を務めた。その歴史観は、師のビノグラドフやクリュチェフスキーら国家学派の影響を受け、『ロシア文化史』全3巻(1896~1903)や『ロシア歴史思想の主潮』(1897)を著し、名声を博した。95年学生運動に関係し、その自由主義的思想から大学を追われ、約10年間をアメリカなどで過ごした。1905年の春ロシアに戻り、カデット(立憲民主党)の創設に参画し、機関紙『レーチ』(ことば)の編集長となり、07年からはその中央委員会会長となった。17年の二月革命後、第一次臨時内閣の外相に就任したが、戦争完遂の「覚書」を連合国に送ったところから、労働者、兵士の強い抗議を受けて辞任した。同年の十月革命後はロンドン、ついでフランスに亡命し、反ボリシェビキの立場から著作活動を続けた。ほかに『18世紀第I四半期ロシアの国家経済とピョートル大帝の改革』(1892)、『ロシア歴史思想の主潮』(第二版・1898)、『第二次ロシア革命』全3巻(1921~24)の著書がある。

[外川継男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ミリュコーフ」の意味・わかりやすい解説

ミリュコーフ

ロシアの政治家,歴史家。1905年カデット(立憲民主党)を結成,国会議員として活躍。1917年二月革命後臨時政府の外相。政府の中心人物の一人だったが四月デモによる民衆の圧力で辞任。その後も一貫してカデットを指導し,十月革命後フランスに亡命してからも反革命活動に従事。《ロシア文化史概論》などの著がある。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ミリュコーフ」の解説

ミリュコーフ
Pavel Nikolaevich Miliukov

1859~1943

ロシアの政治家,歴史家。モスクワ大学を追われたのち,1905年革命の際にカデット党を組織し,自由主義反対派の代表として国会で活動。二月革命後に臨時政府の外相となったが,2カ月で辞任。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のミリュコーフの言及

【カデット】より

…第1次大戦期には他の有産階級諸政党とともに〈進歩ブロック〉を形成した。二月革命後の臨時政府には外相に党首P.N.ミリュコーフなど閣僚を送り込み,戦争遂行政策をすすめ,革命の阻止をはかったが,その過程で孤立と反動化をますます強めた。十月革命後,レーニン政府によって〈人民の敵〉の政党として解党させられた。…

【ロシア革命】より

…労働者と兵士がソビエトに忠誠を示し,官吏と将校が国会臨時委員会に忠誠を誓うというあり方が,いわゆる〈二重権力〉状態である。この基礎の上に,ソビエトの承認のもと,3月2日国会臨時委員会は,首相リボフGeorgii E.L’vov(1861‐1925),外相ミリュコーフ,商工相コノバーロフなどの臨時政府を発足させた。この白軍首脳はロジャンコの要請を受け入れ,皇帝に皇太子への譲位を求めた。…

※「ミリュコーフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android