マン・レイ(読み)マンレイ(英語表記)Man Ray

百科事典マイペディア 「マン・レイ」の意味・わかりやすい解説

マン・レイ

米国とフランスで活動した写真家,美術家。フィラデルフィア生れ。本名エマニュエル・ルドニツキーEmmanuel Rudnitsky。ニューヨークのいくつかの美術学校で学ぶ。1908年ニューヨークのギャラリー〈291〉でセザンヌブランクーシなどの作品に触れ,1910年に同ギャラリーを主宰するスティーグリッツを知る。絵画表現に写真のメカニズムを持ち込もうと試み,1915年ころから写真を始め,デュシャンピカビアらとともに,ニューヨーク・ダダ運動を展開。1921年パリに移住ブルトンらと親交を深め,シュルレアリスム運動の中心人物の一人となる。写真のほか絵画,オブジェ,映画など多彩な活動を行い,また多くのシュルレアリストを被写体にしたポートレートも残している。同時にファッション写真家としても活動。レイヨグラフや,ソラリゼーションモンタージュなど,実験的な技法を写真表現に取り込んだ。第2次大戦勃発後は米国に戻り,ハリウッドに滞在。1951年以降は再びパリに住み,同地で没した。
→関連項目アッジェクレールブラントブロドビッチ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マン・レイ」の意味・わかりやすい解説

マン・レイ
まんれい
Man Ray
(1890―1976)

アメリカのダダとシュルレアリスム芸術家。おもにパリで活動し、絵画、彫刻、オブジェ、写真、映画、ブック・デザインなどを表現手段としたが、とくに写真では、彼自身が案出し命名した新技法「レイヨグラフ」「ソラリゼーション」などを用いて新しい芸術表現の可能性を切り開き、いわゆる前衛写真の先駆者となった。

 フィラデルフィアに生まれ、ニューヨークに出て地域センターの公開講座で絵を学び、A・スティーグリッツの画廊に出入りするようになる。1915年、そこでフランスのダダイスト、デュシャンを知り、ピカビアとともにそのサークルに加わり、ニューヨークにおけるダダの運動を推進させた。1921年、デュシャンの後を追ってパリに移り、パリのダダイストと合流、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム運動に参加して、その重要なメンバーとして活躍した。この間、モンパルナスのモデル、キキと同棲(どうせい)したり、第二次世界大戦中はナチス迫害を避けて一時帰米(1940~1946)したが、多才なシュルレアリストとして波瀾(はらん)の生涯をパリで閉じた。

 代表作として、絵画に『綱渡り踊り子は影を伴っている』(1916・ニューヨーク近代美術館)、オブジェに『贈り物』(1921)、前衛映画にロベール・デスノスの詩の映像化『ひとで』(1928)などがある。

[平木 収]

資料 監督作品一覧

理性への回帰 Le retour à la raison(1923)
ひとで L'étoile de mer(1928)
サイコロ城の秘密 Les mystēres du château du Dé(1929)

『『マン・レイ写真集』(1980・朝日新聞社)』『飯島耕一訳『写真家 マン・レイ』(1983・みすず書房)』『千葉成夫訳『セルフポートレイト――マン・レイ自伝』(1984・美術公論社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マン・レイ」の意味・わかりやすい解説

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