マレー(英語表記)David Murray

精選版 日本国語大辞典 「マレー」の意味・読み・例文・類語

マレー

[一] (David Murray デービッド━) アメリカの教育家。森有礼に招かれて来日。学制実施に貢献し、東京大学・東京女子師範学校・学士院の創設や幼稚園の開設を献策、日本の近代教育制度確立に尽力した。(一八三〇‐一九〇五
[二] (Sir James Augustus Henry Murray サー=ジェームズ=オーガスタス=ヘンリー━) イギリスの言語学者・辞典編集者。ロンドン言語学協会会長をつとめ、同協会とオックスフォード大学出版局の依嘱を受けて「NED(新英語大辞典)」を編集。刊行中に他界したが、辞典編纂に功績を残した。(一八三七‐一九一五

マレー

(Malay) 東南アジア、マレー半島とその周辺のシンガポール島を含む島々の総称。マライ。

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デジタル大辞泉 「マレー」の意味・読み・例文・類語

マレー(Marais)

フランス、パリ中心部、セーヌ川右岸の地区名。パリ第3・4区に属する。15世紀末のサンス館、16世紀のカルナバレ博物館、17世紀の王侯貴族の館に囲まれたボージュ広場など、パリ最古の町並みが残っていることで知られる。マレ。

マレー(David Murray)

[1830~1905]米国の教育者。明治6年(1873)文部省顧問として来日。学制改正の指導、東京大学の整備、女子師範学校の創設などに貢献した。モルレー。

マレー(Malay)

東南アジアのマレー半島およびシンガポール島などの島々を含む地域。マライ。

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改訂新版 世界大百科事典 「マレー」の意味・わかりやすい解説

マレー
David Murray
生没年:1830-1905

明治初期の文部省顧問のアメリカ人。モルレーとも呼ばれる。1852年ユニオン・カレッジを卒業,63年ラトガーズ・カレッジの数学,天文学の教授となる。駐米弁務使森有礼と知り合い,その推挙により,73年6月来日,以後79年12月まで文部省の最高顧問(当初は督務官,1874年10月から学監)の任にあった。女子教育を重んじて東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)の創設を進め,近代大学としての東京大学の編成を指導した。また文化振興策として学者文化人の団体,東京学士会院(後の日本学士院)の設立を示唆したほか,76年フィラデルフィアのアメリカ独立100年期博覧会に出張して日本教育の進展を紹介した。〈学制〉の画一的施行には批判的であり,77年〈学監考案日本教育法〉を提出して〈学制〉改正構想を示した。79年9月の〈教育令〉は,その示唆によるところが大きい。80年帰国後は,ニューヨーク大学,ラトガーズ大学などの管理運営に当たったが,《Japan》《The Story of Japan》なども著している。
執筆者:

マレー
Philip Murray
生没年:1886-1952

アメリカの労働運動指導者。スコットランドグラスゴーで炭鉱夫の子として生まれ,10歳から炭鉱で働いた。1902年に家族とともにアメリカに移民し,西ペンシルベニアの炭鉱町に定住。04年にアメリカ炭鉱夫組合(UMWA)の支部長となり,以後UMWAの組合役員の道を歩み,20年に副委員長となる。30年代に,委員長のJ.L.ルイスとともに,産業別組合主義運動を推進し,鉄鋼業の組織化に成功。42年にアメリカ鉄鋼労組(USWA)の委員長となり,46年と49年の鉄鋼ストを指導した。1940年から他界する52年まで,産業別組合会議(CIO。〈AFL-CIO〉の項参照)の会長を務めた。戦闘的な組合指導者ではあったが,CIO内では共産党と対決した保守派に属する。民主党員であり,ペンシルベニア教育委員会委員,赤十字理事など組合活動以外の分野でも活躍した。宗教はカトリック
執筆者:

マレー
Henry Alexander Murray
生没年:1893-1988

パーソナリティ研究で著名なアメリカの心理学者で,TATの創案者。歴史学を学んだ後,1919年コロンビア大学医学部卒業。発生学や生化学の研究に従事した後,27年ハーバード大学心理学講師,50年教授となった。個人やその行動は種々の要求と環境からの圧力との相互作用のなかでとらえるべきであると主張し,それを〈主題〉とよんだ。心理学への転向をもたらしたのはユングとの出会いであり,力学的観点など精神分析の影響は大きいものの,生物学的な大脳過程や個人の歴史性にも力点をおいた独自の理論を唱えた。
執筆者:

マレー
John Murray
生没年:1841-1914

イギリスの海洋学者。カナダのオンタリオの生れ。のちスコットランドに移り,エジンバラ大学に入る。その学生時代にチャレンジャー号探検に最年少の科学者の一人として参加。博物学者として,プランクトン海底堆積物,サンゴ礁の調査をおもに分担した。プランクトンの研究においては海洋漁業の科学的調査の面から新しい方法を導入し,海洋地質学を開き,サンゴ礁の研究ではC.ダーウィンの説の欠点を改めた。C.W.トムソン亡き後は,チャレンジャー探検の資料整理および報告書の作成の主任を務め,50巻の報告書(1880-95)を完成した。
執筆者:

マレー
George Gilbert Aimé Murray
生没年:1866-1957

イギリスの古典学者。オーストラリアのシドニーに生まれ,オックスフォード大学を卒業。1908-36年,母校の王立ギリシア文学講座教授。校訂の精密さとともに,文化人類学的な知識にもとづいて,ギリシア劇のなかに祭祀的な要素をみる方法を導入,これが新しい研究方法を生み出すことになる。主著は《ギリシア叙事詩の成立》(1907,再版1924),《ギリシア宗教の五段階》(1925),《詩における古典的伝統》(1927),《ヘレニズムと近代世界》(1953)など。
執筆者:

マレー
Margaret Alice Murray
生没年:1863-1963

イギリスの歴史学者。インドのカルカッタに生まれ,ロンドン大学に入学後エジプト学を専攻,母校で助教授を務めた。かたわら進められた民俗学研究で,西ヨーロッパに見られる魔女の儀礼や悪魔崇拝をキリスト教以前の土着宗教の残滓とする新たな見解に達し,著書《西ヨーロッパにおける魔女信仰》(1921)で広く世に知られた。その当否は今も議論の対象であるが,秘儀を伝承する団体や魔術実践家に受け入れられ,1970年代の魔術ブームの礎石となった。
執筆者:

マレー
Hans von Marées
生没年:1837-87

ドイツの風景画家。ドイツ北西部のエルバーフェルト(現,ブッパータール)生れ。ドイツ,イタリアを転々とし,1873年以降はイタリアに滞在。その間美学者フィードラー,彫刻家ヒルデブラントらの知遇を得る。人物(多く裸像)や樹木,大地などを組み合わせた厳格な構図,陰影に富み豊饒な色彩を用いたモニュメンタルな画面により,造形要素そのもののもつ表現力(精神性も含む)を追究した。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「マレー」の解説

マレー

没年:1905.3.6(1905.3.6)
生年:1830.10.15
アメリカの教育者,教育行政家。明治初年日本に招かれ,教育行政制度の基礎作りに貢献したお雇い外国人。スコットランド移民ウイリアム・マレーと妻ジーンの子として,ニューヨーク州に生まれた。同州ユニオン大学に学び,卒業後オルバニー・アカデミー校長,ラトガース大学の数学天文学の教授を務める。明治5(1872)年駐米小弁務使森有礼の質問状に回答を寄せたのが契機となり,翌年日本に招聘された。以後文部省学監として5年半,教育行政全般にわたり田中不二麿文部大輔を助ける。また日本の教育改革に関する諸報告書の中で師範教育,女子教育振興の必要などを説く。東大の創設にも協力した。報告書の中で特に重要なのは,彼の学制(1872年発布)改革案ともいえる「学監考案日本教育法」である。この中でマレーは学制の急進的教育改革の構想を原則的に支持し,文部省による諸教育機関および教育内容の統括,公立学校教員資格の制定,教科書の検閲など極端な中央集権を提唱した。この提言は,いわゆる改正教育令(1880)とその後の文部省諸法令に反映される。12年帰国。翌年から10年間ニューヨーク州大学校リージェント委員会幹事として州内の全中等・高等教育機関を監督。ここで再び全州統一試験制度の拡充,師範教育の管理強化など教育行政の中央集権化を推進。晩年は《The Story of Japan》(1894)を著したり,ジョンズ・ホプキンズ大学で〈Education in Japan〉と題する講演を行うなど,日本の紹介に努めた。

(吉家定夫)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マレー」の意味・わかりやすい解説

マレー
Murray, Sir James

[生]1837.2.7. デナム
[没]1915.7.26. オックスフォード
スコットランドの辞書編集者。フルネーム Sir James Augustus Henry Murray。『オックスフォード英語辞典』The Oxford English Dictionary (OED)の母体となった英語辞典『史的原理による新英語辞典』A New English Dictionary on Historical Principles (NED)の初代編集主幹を 1879年から務めた。1855~85年,グラマースクールの教師を務め,その間 1878年に『ブリタニカ百科事典』の英語に関する有名な項目を執筆,1878~80,1882~84年言語学会会長を務めた。マレーが手がけた NEDは 12世紀半ば以後の英語(一部はさらに古い)をすべて採録することを目的とした大規模な辞典で,歴史的かつ記述的原則に厳密に基づく構成をとり,語義には用例が使用年代とともに付された。1884年に第1巻がオックスフォード大学出版局から出版された。マレーは 1885年から死去するまでオックスフォードに住んで膨大な資料に取り組み,全体の約半分にあたる項目を完成させた。1908年,ナイトに叙された。

マレー
Murray, Joseph E.

[生]1919.4.1. マサチューセッツ,ミルフォード
[没]2012.11.26. マサチューセッツ,ボストン
アメリカ合衆国の外科医学者。フルネーム Joseph Edward Murray。1940年マサチューセッツ州ウースターのホーリークロス大学を卒業,1943年ハーバード大学医学部で博士号を取得。ボストンのピーター・ベント・ブリガム病院(のちのブリガム・アンド・ウイメンズ・ホスピタル)に外科医として勤務,末期腎不全患者の医療チームで E.ドノール・トマスらと研究を行なった。一卵性双生児同士の皮膚移植には拒絶反応がみられないという,それまでの皮膚移植での経験をもとに,1954年末期腎不全患者に一卵性双生児の兄弟からの腎臓移植を試み,数年間の延命に成功した。さらに 1962年アザチオプリンなど免疫抑制剤を使った死体腎臓移植を行ない,1年以上の生存に成功,今日にいたる腎臓移植手術の基本方法を確立した。1970年にはハーバード大学医学部教授に就任。1990年共同研究者のトマスとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。

マレー
Murray, David

[生]1830.10.15. ニューヨーク,デラウェアカントリー
[没]1905.3.6. ニュージャージー,ニューブランズウィック
明治初期,日本の教育行政に貢献したアメリカの教育家。モルレーとも呼ばれる。ユニオン・カレッジを卒業後,アルバニー・アカデミーの校長を経てラトガース大学の数学・天文学の教授になったが,森有礼との縁で 1873年来日。文部省の最高顧問 (学監) として学制の実施,近代教育の普及発達に多大の功績を残し,特に女子教育の振興,東京大学の創設などに尽力した。各地の教育の実態をつぶさに視察し,その報告と改善策が『学監米人博士ダウヰッド・モルレー申報』 (1873) ,『学監ダウヰッド・モルレー申報』 (74) ,『学監大闢莫爾矣東京府下公学巡視申報』 (78) として公にされている。そのほか『日本教育史略』 (企画編集,77) ,『学監考案・日本教育法』 (77) などの著述がある。 78年解任され,翌年帰国した。その後,ニューヨーク大学,ユニオン大学,ラトガース大学で評議員,理事などを歴任するかたわら,日本の紹介に努めた。

マレー
Murray, James

[生]1721.1.21. スコットランド,バレンクリーフ
[没]1794.6.18. サセックス,バトル近郊
イギリスの軍人,植民地行政官。ケベック総督 (在任 1764~68) 。 1740年軍隊に入り,ヨーロッパや北アメリカでの歴戦ののち,59年 J.ウォルフによるケベック包囲に加わり,ウォルフの死後,イギリス軍の指揮を引継ぐ。 60年ケベックがイギリス領となるや軍政長官となり,続いて 64年軍政の終結とともに総督に任命された。被征服民であるフランス系カナダ人に対し宥和政策をとり,これが 74年のケベック法に結実したが,強硬策を望むイギリス人商人の反発を買い,66年本国へ呼戻された。彼への非難は却下され,68年まで総督職は保持したものの,2度とケベックへは戻らなかった。 74年ミノルカ島総督となり,82年にスペイン=フランス連合軍に敗れて降伏,軍法会議にかけられたが無罪となり,83年大将に昇任した。

マレー
Murray, Sir John

[生]1841.3.3. オンタリオ,コブール
[没]1914.3.16. カークリストン
イギリスの海洋学者,海洋生物学者。深海の軟泥,赤粘土の研究で有名。『チャレンジャー号』による世界一周海洋探検である「チャレンジャー探検」 (1872~76) に参加,プランクトン,海洋堆積物,サンゴ礁部門を担当。隊長 W.トムソンの死後は報告書編集の仕事を引継ぎ,50巻にわたる近代海洋学上不朽の古典『チャレンジャー報告』 Report on the Scientific Results of the Voyage of H. M. S. Challenger (80~95) を出版した。 1898年ナイトの称号を授けられた。ほかに J.ヒョルトとの共著『深海』 The Depths of the Ocean (1912) がある。

マレー
Murray, Henry Alexander

[生]1893.5.13. ニューヨーク
[没]1988.6.23. マサチューセッツ
アメリカの心理学者。歴史学,医学,生物学,生理学,生化学を修めたのち,C.G.ユングの思想に感銘を受けて心理学に深い関心をもち,M.プリンスの推薦でハーバード大学の心理クリニックの助教授となり,1937年准教授,47年臨床心理学の教授。精神分析,K.レビンの理論に影響された彼のパーソナリティ理論は著名。また絵画統覚テストの開発に貢献。主著『パーソナリティの探究』 Explorations in Personality (1938) ,『絵画統覚検の手引』 Manual of Thematic Apperception Test (43) 。

マレー
Murray, (George) Gilbert (Aimé)

[生]1866.1.2. シドニー
[没]1957.5.20. オックスフォード
オーストラリア出身のイギリスの古典学者。オックスフォード大学に学び,多年母校の教授をつとめた。ギリシア文学,特にエウリピデスの戯曲の翻訳と研究を通じて,英語圏の読者に古典の知識を普及させ,とりわけそれまで軽視されていた文学の思想的,哲学的側面の意義を強調した。新しい人類学による原始生活の解明を古代社会に適用,古代文学に秘められた宗教形態の理解に役立てた。主著『ギリシア宗教の五段階』 Five Stages of Greek Religion (1925) ,『エウリピデスとその時代』 Euripides and his Age (13) など。また世界平和に深い関心をもち,国際連盟の支持者として活躍した。

マレー
Murray, Philip

[生]1886.5.25. ラナーク,プランタイア
[没]1952.11.9. サンフランシスコ
アメリカの労働運動指導者。 1902年スコットランドから,アメリカのピッツバーグに移住し炭坑夫となり,11年アメリカ市民権を取得。のちアメリカ統一炭鉱労働者組合 UMWAに加入し,20年副会長。 35年アメリカ労働総同盟 AFLの J.ルイスとともにアメリカ産業別組合会議 CIO設立に協力,その副議長となり,鉄鋼労働者の組合づくりを担当し,40年 CIO議長。 42年アメリカ鉄鋼労働組合会長。第2次世界大戦中に,F.ルーズベルトの外交政策を支持してルイスと対立し,42年 UMWA副会長を辞任。 49年国際自由労連 ICFTU創立に伴い,その副会長となった。

マレー
Murray, Lord George

[生]1694.10.4. パース近郊
[没]1760.10.11. メーデンブリク
スコットランドの貴族。ジャコバイトの最も有能な将軍の一人。十五年の反乱に参加して大陸に逃れ,1724年帰国。四十五年の反乱に際し,ジャコバイト軍指揮官としてプレストンパンズの戦い (1745) ,スターリング攻略 (46) に勝利を収め,政府軍を脅かしたが,カロデンの戦いで敗れて亡命 (46) ,オランダで死没。

マレー
Marey, Étienne Jules

[生]1830.3.5. コートドール,ボーヌ
[没]1904.5.16. パリ
フランスの生理学者,発明家。パリ大学で医学を学び,1860年に脈拍の性状と血圧の変動を図形的に記録する脈波計を発明した。 67年にコレージュ・ド・フランスの博物学教授。血液循環の研究をはじめとして実験生理学の面で功績を残したほか,地球と大気の運動について研究した。映画の発展史上においても,その先駆者であり,82年に鳥類の飛行を研究するために連続撮影のできるカメラを発明した。 94年には,この映画撮影機を顕微鏡に取付けている。

マレー
Marais, Jean

[生]1913.12.11. シェルブール
[没]1998.11.8. カンヌ
フランスの舞台・映画俳優。本名 Jean Alfred Villain-Marais。 1940~50年代に二枚目の人気スターとして活躍。舞台,映画の両分野で J.コクトーと緊密な協力関係を保ち,『美女と野獣』 (1945) ,『恐るべき親たち』 (48) ,『オルフェ』 (49) などをはじめとし,コクトーの映画作品に多数出演した。

マレー
Marais, Marin

[生]1656.3.31. パリ
[没]1728.8.15. パリ
フランスの作曲家,ビオラ・ダ・ガンバ奏者。パリのサント・シャペルの少年合唱隊員を経て,作曲とガンバを学んだ。 1685年より王室室内楽団のガンバ奏者,独奏者として活躍する一方,ガンバ教師としても多くの弟子を育成した。作品は『ビオラ・ダ・ガンバ作品集』 (5巻) ほかオペラ,ガンバを中心とする室内楽曲など。

マレー
Murray, John

[生]1778
[没]1843
イギリスの出版業者。同名の父の事業を継ぎ,G.バイロンなどの作品を刊行する一方,雑誌『クォータリー・レビュー』 The Quarterly Reviewを創刊 (1809) 。

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百科事典マイペディア 「マレー」の意味・わかりやすい解説

マレー

フランスの科学者,写真家。ブルゴーニュ地方のボーン生れ。心臓の鼓動,肺の弁の開閉,筋肉の震えなど内臓器官の動きについて学んだ後,鳥の飛翔,馬のギャロップ,昆虫の微動,人間の身体の動きなど動物の動きに関する研究を始める。その過程でさまざまな装置を発明。マイブリッジによる連続撮影写真や〈ズープラクシスコープ〉を知り,自らの研究にとっての写真の重要性を確信する。以降,同一画面上に連続撮影した動体の画像を記録する装置〈クロノ・フォトス〉や〈写真銃〉など,画期的な撮像装置を開発した。その広い領域にまたがる研究は,ベルグソン未来派の芸術家,デュシャンらにも影響を与えた。

マレー

米国の労働運動指導者。スコットランド生れ。炭坑夫出身で1920年―1942年炭鉱労働組合副委員長。その間1935年CIOを結成して副議長,1940年議長となり,1942年国際自由労連結成と同時に副会長。労使協調を唱え,紛争和解の交渉役として名をあげた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「マレー」の解説

マレー
David Murray

1830.10.15~1905.3.6

モルレーとも。御雇アメリカ人教師。両親はスコットランド出身。ユニオン大学卒業後,1863年にラトガーズ大学教授に就任,天文学・数学を担当した。駐米小弁務使森有礼(ありのり)の日本の教育に関する質問書に答えたことなどを機縁に,73年(明治6)日本政府から文教行政の最高顧問として招かれ来日。74~78年に学監として文部大輔田中不二麻呂に助言し,東京大学の改革,東京女子師範および付属幼稚園の創設,博物館の設置などに尽力,79年の教育令の起草にも影響を及ぼした。1878年末に離日。帰国後はニューヨーク州の教育行政などに従事した。ニュージャージー州で死去。

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旺文社日本史事典 三訂版 「マレー」の解説

マレー
David Murray

1830〜1905
アメリカの教育家。御雇外国人の一人
1873年来日。'78年の帰国まで文部省学監として,文部大輔田中不二麿を助けて教育制度の整備に尽力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「マレー」の解説

マレー Murray, David

モルレー

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「マレー」の解説

マレー

生年月日:1886年5月25日
アメリカの労働運動指導者
1952年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のマレーの言及

【オーストラリア】より

…オーストラリアの植物分布は主として降水量に支配され,中央部の砂漠ではワジ沿いに葉のまばらな,やせた低木やイネ科ツキイゲ属の叢生が見られる。降水量の増加に伴って,砂漠はマルガmulga(アカシア属)やマレーmallee(丈の低いユーカリ属数種の総称)の灌木林,次いでサバンナへと移行し,ついにはマウンテン・アッシュmountain ashやカリーkarri(いずれもユーカリ属)などの巨木が優占する森林帯となる。また,低地の大河沿いには,うっそうとしたレッド・ガムred gum(ユーカリ属)の河辺林が成立する。…

【TAT】より

…thematic apperception testの略称。H.A.マレーとモーガンC.D.Morganが,1935年に初めて発表。その実施手続は,さまざまな状況を描いた絵30枚と白紙1枚のなかから,被検者の年齢や性別などによって20枚を選び,10枚ずつ2回に分けて提示し,過去,現在,未来といった時間的変化を含んだ物語を被検者に空想させるものである。…

【海底堆積物】より

…したがって,深海堆積物はそれを構成する物質によって分類されるようになった。1891年,マレーJ.MurrayとレナードA.F.Renardはチャレンジャー6世号の採集試料にもとづいて,海底堆積物を海底の水深,陸からの距離,構成物の種類を考慮して,系統的に分類した(表1)。それは改変と細分を経て現在の分類体系が確立されてきた。…

【魔女】より

… キリスト教成立以前の異教時代では,彼女たちは魔女という総括的な名でよりは,むしろ女占い師や巫女,薬剤師といった個別的な職業名で呼ばれていたものと思われる。魔女の原義は例えばゲルマン語ではhag(垣根)とzussa(女)の合成語であるところから〈女庭師〉であり,またイギリスの歴史家M.マレーのように,古代エジプトの豊穣信仰の女祭司に魔女の起源を求める説もある(《西ヨーロッパにおける魔女信仰》1921)。グリム兄弟はアイルランドの妖精物語が魔女信仰の細部と符合することを指摘している。…

※「マレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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