マルトフ(英語表記)L.Martov

精選版 日本国語大辞典 「マルトフ」の意味・読み・例文・類語

マルトフ

(L. Martov) 本名ユーリー=オシポビチ=ツェデルバウム。ロシア社会民主労働党指導者レーニンの僚友であったが、一九〇三年の第二回大会でレーニンと対立メンシェビキ派の指導者となる。十月革命後ボルシェビキ政権に反対し、一九二〇年ベルリン亡命。(一八七三‐一九二三

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デジタル大辞泉 「マルトフ」の意味・読み・例文・類語

マルトフ(L. Martov)

[1873~1923]ロシア革命家。本名、ユーリー=オシポビチ=ツェデルバウム(Yuliy Osipovich Tsederbaum)。レーニンとともにロシア社会民主労働党設立活躍。のち、レーニンと対立し、メンシェビキの指導者となった。十月革命に反対してベルリンに亡命。

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改訂新版 世界大百科事典 「マルトフ」の意味・わかりやすい解説

マルトフ
L.Martov
生没年:1873-1923

ロシア社会民主労働党メンシェビキ派の指導者。本名はツェデルバウムYulii Osipovich Tsederbaum。トルコイスタンブールに生まれ,ロシアのユダヤ人差別の中で育ち,ナロードニキに共鳴したがマルクス主義に転じ,レーニンらと社会民主労働党の草創を担った。1896年に逮捕され,シベリア流刑の後,1901年ドイツに亡命し,新聞《イスクラ編集に携わり,党再建と第2回党大会(1903)召集の原動力として働いた。大会ではレーニンと組織問題をめぐり対立し,党を分裂させた。以後05年のロシア革命期の和解を除き,メンシェビキを率いてボリシェビキと戦術,モラルなどの問題で対立を深め,12年に党は最終的に分裂した。17年の二月革命ではレーニン抜きの政府樹立を企てたが,十月武装蜂起に敗れた。十月革命後ボリシェビキ権力の退廃を批判したが,活動の自由を奪われ,20年ベルリンに去り,《社会主義通報》誌を発刊し,対コミンテルン闘争を行った。バーデンシェーンベルクで病死。著作には《ロシア社会民主労働党史》(1923)などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルトフ」の意味・わかりやすい解説

マルトフ
まるとふ
Л. Мартов/L. Martov
(1873―1923)

本名Юлий Осипович Цедербаум/Yuliy Osipovich Tsederbaum。ロシアの革命家、社会民主労働党員。コンスタンティノープルの商人の子に生まれる。ペテルブルグ大学を中退し、1895年、レーニンによって創設された「労働者階級解放闘争同盟」に加わったが、96年に逮捕され、97年シベリアに流刑となった。1901年ミュンヘンに亡命、『イスクラ』編集者の1人となる。3年のロシア社会民主労働党(共産党)第2回大会でレーニンと対立、メンシェビキの指導者となった。05年の革命の際ペテルブルグ・ソビエトの活動に参加。反動期には解党派の『社会民主主義者の声』を編集、17年メンシェビキ‐国際派のグループとともにメンシェビキ「左派」として十月革命に協力し、第7、第8回全ロシア・ソビエト大会代議員、19年には全ロシア・中央執行委員会委員に選出された。国内戦期にはプロレタリアート独裁に反対し、20年亡命先のドイツで死去。回想録『社会民主党員の手記』(1922)がある。

[木村英亮]

『マールトフ著、加藤一郎訳『ロシア社会民主党史』(1976・新泉社)』『I・ゲツラー著、高橋馨訳『マールトフとロシア革命』(1975・河出書房新社)』

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百科事典マイペディア 「マルトフ」の意味・わかりやすい解説

マルトフ

ロシアの革命家。本名ツェデルバウムY.O.Tsederbaum。初めレーニンの僚友で,1895年ペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の結成に参画,《イスクラ》編集にも当たった。1903年以後レーニンと対立,第1次大戦から十月革命にかけてはメンシェビキ左派の指導者となり,1920年亡命。ドイツで《社会主義通報》誌を発行し,対コミンテルンの闘争を展開。主著《ロシア社会民主労働党史》。
→関連項目ロシア社会民主労働党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マルトフ」の意味・わかりやすい解説

マルトフ
Martov, L.

[生]1873.11.24. イスタンブール
[没]1923.4.4. ベルリン
ロシアの革命家。本名 Yulii Osipovich Tsederbaum。ユダヤ人の家に生れた。 1891年革命運動に入り,93~95年流刑となった。 95年レーニンとともに「労働者階級解放闘争同盟」に加わったが,翌年逮捕されてシベリア流刑に処せられた。 1901年国外に逃れて,レーニンや G.V.プレハーノフと『イスクラ』の編集にあたったが,03年ロシア社会民主労働党第2回大会で組織問題でレーニンと対立,以後メンシェビキの指導者となった。 17年二月革命後ロシアに戻ったが,ボルシェビキ政権に反対して 20年亡命し,ベルリンで『社会主義通報』 Sotsialisticheskii Vestnikを発行した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マルトフ」の解説

マルトフ
L. Martov (本名 Iulii Osipovich Tsederbaum)

1873~1923

ロシア社会民主労働党の指導者。初めレーニンの僚友であったが,1903年の第2回大会で決別,メンシェヴィキの指導者となる。17年には戦争反対派に属したが,十月革命に反対し,20年亡命した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マルトフ」の解説

マルトフ
Martov
本名Yulii Osipovich Tsederbaum

1873〜1923
ロシアの革命家
レーニンとともに革命運動に参加して,シベリア流刑後亡命。国外で機関紙「イスクラ」を編集・発行した。1903年のロンドンでのロシア社会民主労働党第2回大会でレーニンと対立し,以後メンシェヴィキの指導者となる。十一月革命に反対し,亡命した。

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367日誕生日大事典 「マルトフ」の解説

マルトフ

生年月日:1873年11月24日
ロシアの政治家
1923年没

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世界大百科事典(旧版)内のマルトフの言及

【ソビエト連邦共産党】より

…このマルクス主義運動サークルのなかから1898年にソビエト連邦共産党の前身であるロシア社会民主労働党が創立され,ストルーベによる創立宣言が発表された。その後,ロシア・マルクス主義の父とよばれたプレハーノフらは若手のレーニン,マルトフらとともに新聞《イスクラ》に拠って本格的な革命政党の形成をめざし,1903年の第2回党大会以前から合法マルクス主義や経済主義の各潮流と対立関係にあった。しかし,この大会では党規約第1条をめぐって,西ヨーロッパ型の大衆政党を志向するマルトフと,少数の前衛的革命党観を有するレーニンとの間に対立が生じ,前者を支持する少数派(メンシェビキ)と多数派(ボリシェビキ)との分裂が生じた。…

【ロシア社会民主労働党】より

…91年の大飢饉や翌年のウッチのゼネストの影響下に数十のマルクス主義サークルが生まれた。その最有力グループがレーニンマルトフらのペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟である。レーニンらは逮捕・流刑になるが,各地にこれを模倣した〈闘争同盟〉がつくられた。…

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