マリク
malik[アラビア]
〈支配者〉〈王〉を意味する語。コーランでは神あるいは異民族の王の呼称として用いられ,カリフも自らマリクを称することはなかった。しかしアッバース朝以後のウラマーによれば,ウマイヤ朝時代からのカリフは,たとい称号はカリフであっても,その実態は世俗的な君主(マリク)にすぎず,わずかにアッバース朝時代の何人かのカリフがイマームに必要とされる水準に達したとされた。現実には,10世紀以降サーマーン朝やブワイフ朝の君主はアッバース朝カリフの宗主権を認めて,自らはペルシア語のシャーと同じ意味でマリクを称した。トルコ系のザンギー朝やアルトゥク朝の君主もマリクの称号をよく用いたが,アイユーブ朝やマムルーク朝では〈勝利の王al-malik al-nāṣir〉のように,スルタンに対する形容名辞としての用法が一般化した。近代以降は,エジプトやイラクやヒジャーズなど独立国家の君主の称号として使用された。
執筆者:佐藤 次高
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マリク
Malik, Adam
[生]1917.7.22. 北スマトラ,プマタンシアンタル
[没]1984.9.5. 西部ジャワ島,バンドン
インドネシアの政治家。イスラム教学校卒業。 1930年代,オランダ領東インドの独立を要求する民族主義者グループの一員としてオランダ官憲に投獄された。 37年アンタラ通信社 (1962,国営通信社となる) を創設して社長に就任。 46年ムルバ (プロレタリア) 党創立,56年下院議員。 59~62年ソ連駐在大使。 62年西イリアン問題で対オランダ交渉の首席代表。 63~65年貿易相。スカルノ体制を倒した 65年の九・三〇事件後,スハルト大統領の新体制下で 66年3月外相就任。東南アジア諸国連合 ASEANの創立者の一人であり,またインドネシアの現実的非同盟政策の推進者として,スハルト大統領の信任を得た。 71~72年第 26回国連総会議長をつとめ,中国の国連加盟を推進した。 78~83年副大統領をつとめた。
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マリク
ソ連の外交官。ウクライナ生れ。日本通として知られ,駐日大使館参事官,大使を経て,第2次大戦後は国連代表として朝鮮戦争の停戦を提案。駐英大使,外務次官を経て1968年以後再度国連代表。1955年日ソ交渉全権ともなった。
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マリク
Iakov Aleksandrovich Malik
1906~80
ソ連の外交官。1939年より駐日ソ連大使館参事官。42~45年同大使。48年国連安全保障理事会ソ連代表となり,51年には朝鮮停戦を提案。55年駐英大使として日ソ交渉の全権代表を務めた。
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