マラーター戦争(読み)マラーターせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「マラーター戦争」の意味・わかりやすい解説

マラーター戦争 (マラーターせんそう)

1775年から1818年までの間,インドのデカン地方のマラーター王国イギリスとの間で3度にわたり戦われ,王国の崩壊をもたらした戦争。王国は当時同盟の形態をとっていたが(マラーター同盟),1772年の第4代ペーシュワー(宰相)のマーダバ・ラーオ・バッラールの死後に激しい後継者争いが表面化し,加えて同盟内の諸侯間の分裂,対立が顕著となっていった。同じころアウド地方の属領化を進めていたイギリス東インド会社軍がここに介入して起こったのがこの戦争である。第1次(1775-82)は継承問題をめぐる内紛窮地に陥った第6代ペーシュワーのラグナート・ラーオ一派がボンベイのイギリス人に援助を要請したことから起こったもので,イギリスはベンガルからの援軍まで出して勝利を収めた。その後もマラーター勢力内部の対立,とくにペーシュワー位をめぐるシンディア家グワーリオール)とホールカル家(インドール)の葛藤は激しく,ついに1802年に第9代ペーシュワーのバージー・ラーオ2世はイギリス側に保護を求めた。彼はイギリスとの条約でその宗主権を認めるまでの譲歩を行うが,直後にこれを撤回して諸侯にイギリスとの対決を訴える。諸侯はイギリスに対し戦闘を展開するが相互に一致団結はすでになく,各個撃破されていずれも領土を割譲して軍事保護条約の締結を余儀なくされた(第2次。1802-05)。しかしこのあとマラーター勢力内のイギリスに対する屈辱意識は強く,明確な反英姿勢が諸侯間にみられた。こうして17年に第3次戦争が始まるが,諸侯の団結力は弱く,次々にイギリスの軍門に下り,17年11月マラーター軍がプネープーナ)郊外カドキーで敗れ,翌年6月バージー・ラーオ2世は降伏する。この結果インド中・西部全域で完全な独立国は消滅し,マラーター諸侯もイギリスに従属する藩王国地位に落ちた。これでイギリスは西北インドのシク王国を除き半島部のほぼ全域を植民地とした。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「マラーター戦争」の解説

マラーター戦争(マラーターせんそう)
Marāṭhā

1775年から1818年まで3次にわたって(1775~82年,1803~05年,17~18年),インドのマラーター同盟とイギリスの間で戦われた戦争。マラーター同盟は敗北し,その結果,インドでイギリスに対抗しうる勢力はパンジャーブのシク王国を残すだけとなった。第1次でイギリスは,マラーター同盟の宰相の後継争いに介入したが,苦戦し兵を引かざるをえなかった。第2次ではイギリスは,バセイン条約(バージー・ラーオ2世がイギリスの保護を受けるために結んだ条約)に不満を持つマラーター諸侯と戦った。デリーアーグラーおよびドアーブ地方を手に入れたが,戦争を指導したウェルズリー総督が本国と対立して召還されたので,戦争は途中で終結した。第3次のときはマラーター同盟は弱体化しており,イギリスは数カ月で簡単に勝利をおさめた。

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