マニ教(読み)マニきょう(英語表記)Manichaeism

精選版 日本国語大辞典 「マニ教」の意味・読み・例文・類語

マニ‐きょう ‥ケウ【マニ教】

〘名〙 (マニはMani) 三世紀にマニ(二一五頃~二七六頃の人)がイランにおいて始めた宗教。ペルシア固有のゾロアスター教二元論に、キリスト教グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。四世紀には、ローマ・北アフリカの都市知識層に迎えられ、六~七世紀にはチベットから中国にまで達したが、しだいに道教に同化されていった。

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デジタル大辞泉 「マニ教」の意味・読み・例文・類語

マニ‐きょう〔‐ケウ〕【マニ教】

Mani》3世紀にペルシアのマニが創唱した宗教。ゾロアスター教母体とし、キリスト教仏教の諸要素を取り入れて、光(善)とやみ(悪)の二元論的世界観を根本に、禁欲的実践による救済を説く。4世紀を最盛期として西アジアローマ帝国に広まり、6世紀以後はペルシア東部からチベット・中国()など東方に広まったが、13~14世紀に急速に衰えた。中国では摩尼祆教まにけんきょうとよばれた。
[補説]「摩尼教」とも書く。

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改訂新版 世界大百科事典 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教 (マニきょう)
Manichaeism

イラン人マニMani(216-276・277。正確にはマーニーMānī)によって3世紀に創始,唱導された二元論的宗教。当時のゾロアスター教を教義の母体として,これにキリスト教,メソポタミアグノーシス主義と伝統的土着信仰,さらには仏教までを摂取,融合した世界宗教である。その徹底した二元論的教義では,光と闇,善と悪,精神と物質とが截然と分かたれていた始源のコスモスへの復帰を軸として,マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される。教団組織は仏教のそれにならったと推測され,出家に相当する〈義者・選ばれた者ardavān〉と俗人の〈聴聞者niyōshagān〉の2種類の信者により構成されていた。前者には,肉食・動植物損傷の禁止,完全な禁欲,週に2日の断食,イスラムの断食月の先駆となったと考えられるベーマBēma大祭(マニの殉教と昇天を祝う最大の祝祭)に先立つ1ヵ月の断食などが要求された。マニはササン朝シャープール1世の厚遇を得て,インドに及ぶ精力的な伝道活動を行ったが,次々王ワラフラン1世の宗教政策転換により殉教した。死後も教義は後継者の手により,4世紀には西方では,エジプト,北アフリカ,さらにイベリア半島にまで伝えられ,イスラム時代以降も,ザンダカ主義のような形でイラン系知識人の間に影響を残した。

 マニ自身はアラム語の一方言で記述したが,シャープール1世に献呈した《シャーブーラガーン》という中世ペルシア語書の存在したことも伝えられている。他の聖典としては《大福音書》《生命の宝》《プラグマテエイア》《秘儀の書》《巨人の書》がある。これらすべて,断簡としてしか残されていない。
執筆者:

マニ教は7世紀末に中国に伝わり,〈摩尼教〉あるいは〈末尼教〉と音写され,教義に則して〈二宗教〉あるいは〈明教〉と呼ばれた。唐代にあっては,白衣白冠の徒と称された摩尼教は,景教(ネストリウス派キリスト教)および祆(けん)教(ゾロアスター教)とともに,西方渡来の宗教の代表と目され,それらの寺院は〈三夷寺〉と称された。とくに漠北にいたトルコ族のウイグル(回紇)に広まり,第3代牟羽可汗治下にその国教となりさえした。唐の玄宗は732年(開元20)に邪教として漢人の信仰を禁じたが,在留の西域人については不問に付した。768年(大暦3)にはウイグルの要請で長安に大雲光明寺と呼ばれる摩尼教寺院が建てられ,9世紀の初めにかけて長江(揚子江)方面の大都会や洛陽,太原にも建てられたが,843年(会昌3)に会昌の廃仏に先立って禁断された(三武一宗の法難)。2年後の廃仏の際に景教と祆教も禁断され,宣教師たちは還俗させられるが,摩尼教の場合は,入唐僧の円仁が《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》に,勅が下って天下の摩尼師を殺さしめたと明記したごとく,多数の殉教者を出した点が注目される。五代・宋代以後には,仏教や道教などと習合した秘密宗教として,江南四川で行われ,しばしば官憲による邪教取締りの対象とされた。日本の《御堂関白記》をはじめとする日記の具注暦に日曜日を〈蜜〉と記すのは,摩尼教の信徒が日曜日を休日として断食日とした暦法が東漸して日本にまで伝わったことの明証である。なお,20世紀初頭以来の中央アジア探検によって,トゥルファン(吐魯番)などから多数の摩尼教関係の文献や壁画が発見された。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教
まにきょう
Manichaeism

マニが3世紀にイランで創始した普遍的宗教で、東西に広く伝播(でんぱ)し、歴史的な勢力となった。経典宗教としての特色をもち『シャブラーカーン』『いのちの書』『プラグマティア』『秘儀の書』『マニ書簡』などを経典とする。

[加藤 武]

教義

フランスの東洋学者ペリオが中国で発見したマニ教断簡(パリ国立博物館所蔵)によると、その教義は、二宗すなわち光と闇(やみ)、善と悪の二つの原理の対立に基づいており、三際とよばれる三つの時期に区分される。初際、つまり第一の時期にはまだ天地は存在していず、ただ明暗の区別があるのみである。明の性質は知恵で、暗の性質は愚かであった。そしてまだ対立矛盾はおこっていない。中際、つまり中期に入ると、すでに暗(闇)が明(光)を侵し始めていた。明がやってきて暗に入り込み混合した。大いなる苦しみのために、人は目に見える形体の世界から逃れようと願った。「火宅」(この世界)を逃れるためには真(光)と偽(闇)を見分け、救われるための縁をとらえなければならない。後際、つまり第三の時期には教育と回心を終える。真(光)と偽(闇)はそれぞれもときた根(ね)の国に帰る。光は大いなる光に帰り、他方、闇は闇のかたまりに帰る。以上の内容は、『テオドレ・バル・コーニー』とよばれる8世紀のシリア語の叙述ともよく一致する。

[加藤 武]

教団

マニは12人の教師、72人の司教、360人の長老からなる後継者を二つの群に分けた。一つはエレクトゥスelectus(選ばれた者)で、聖職者として五戒を守り厳しい修道を行った。いま一つはアウディトゥスauditus(聴問者)で、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守った。ベーマbēmaの祭りを、教団はマニの殉教を記念する日としてもっとも重んじた。

[加藤 武]

伝播

マニ教は、キリスト教、ゾロアスター教、仏教、道教などを混合するとともに、キリスト教や仏教を名のることによって巧みに勢力を伸ばし、4世紀には西方で盛期を迎えたが、6世紀以後東方に向かい中国に達した。唐代の中国では摩尼(まに)教といわれ、則天武后(そくてんぶこう)は官寺大雲(だいうん)寺を建立している。

[加藤 武]

『岡野昌雄訳『アウグスティヌス著作集7 マニ教駁論集』(1979・教文館)』

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百科事典マイペディア 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教【マニきょう】

イラン人マニ(216年―276/77年)を開祖とする宗教。英語でManichaeism,漢語で摩尼教。後期ゾロアスター教,ユダヤ教,キリスト教,仏教,土着信仰が混淆したグノーシス主義的宗教で,徹底した二元論・宇宙論的教義,〈義者〉と〈聴問者〉からなる教団組織,前者の極端な禁欲生活などを特徴とする。シャープール1世の庇護を得て教勢を拡大し,ワラフラン1世治下のマニの殉教後も,東は中国(7世紀末に伝来),西はイベリア半島に及ぶ伝道が行われた。回心前のアウグスティヌスはマニ教徒であった。ボゴミル派カタリ派への影響を指摘する説もある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教
マニきょう
Manichaeism

ゾロアスター教から派生し,キリスト教 (→グノーシス派 ) と仏教の要素を加えた古代ペルシアの宗教。教祖マニの名をとってマニ教と名づけられた。中央アジア一帯に急速に広まり,4世紀初頭にはローマ帝国へ,さらにはインド,中国にも伝わったが,のちイスラム教の迫害を受けて衰退し,13世紀にモンゴル帝国の侵入により消滅した。東西両世界を文化的宗教的に結びつけた功績は大きい。厳格な道徳律と簡明な教義および礼拝様式をもつ。教義は,光明すなわち善と暗黒すなわち悪との自然的二元論が根本をなしており,明暗の現実界を救う予言者としてマニが光明の神からつかわされたという。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マニ教」の解説

マニ教(マニきょう)
Manichaeism

バビロニア生まれのマーニー(216頃~274/276頃)が,ゾロアスター教をもとにキリスト教と仏教の諸要素を加えて創始した折衷的宗教。サーサーン朝シャープフル1世のもとで布教を始め,積極的に各地へ宣教団を派遣した。マーニー自身はバフラーム1世により処刑されたが,その教えは西は北アフリカや南フランスへ,東は中央アジア,インド,中国(摩尼教)にまで広がった。教義は善と悪,光明と暗黒の本質的かつ永遠の対立が続くという思想で,きわめてきびしい倫理観が説かれた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マニ教」の解説

マニ教
マニきょう
Manichaeism

マニを開祖とする宗教
マニはササン朝の人で,3世紀半ばごろ,ゾロアスター教にキリスト教・仏教を融合させ,徹底した善悪二元論のこの宗教を創始した。シャープール1世のとき一時厚遇されたが,その後,ササン朝で禁止され,国外に流布した。西方は北アフリカ・南ヨーロッパ,東方はトルキスタン・中央アジア方面で流行し,唐代の中国でも信仰を集めた。またウイグルにおいて一時国教となったが,イスラームの普及とともに衰えた。

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世界大百科事典(旧版)内のマニ教の言及

【グノーシス主義】より

…この特異なグノーシス主義者については,教父テルトゥリアヌスほかの証言がある。
[イラン]
 3世紀のマニに始まるマニ教は後期グノーシスを代表する。教会組織を積極的に採用し,4世紀末までにはやがて世界宗教となりうるほどの進展を示していた。…

【東西交渉史】より

…このルートを通って,西暦紀元前後には仏教が中国に伝来し,2世紀以降,中国人の精神生活に大きな影響を与えたが,2世紀の後漢の都洛陽では,仏教のみならず,衣食住および芸能の分野でも〈胡風〉と呼ばれた西域趣味が流行した。このルートは,ひき続き盛んに利用され,5~6世紀にはゾロアスター教(祆(けん)教),7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教),7世紀末にはマニ教(摩尼教)などイラン系の諸宗教がこのルートを通じて相ついで中国に流入した。また,それとほぼ時を同じくして,イランの美術工芸の伝統も中国に伝えられ,異国趣味にあふれた美術工芸品を生んだ。…

※「マニ教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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