マゼパ(英語表記)Ivan Stepanovich Mazepa

改訂新版 世界大百科事典 「マゼパ」の意味・わかりやすい解説

マゼパ
Ivan Stepanovich Mazepa
生没年:1644-1709

ロシアのウクライナ・コサックの首長。ウクライナの貴族の家に生まれ,キエフの学校,ワルシャワのイエズス会のコレギウム教育をうけた。その後ポーランド国王に仕え,ウクライナ問題をめぐって政治的手腕を発揮した。1663年ウクライナへ戻り,クリミア・タタールやイスラム世界,そしてロシア政府との交渉にあたり,貴族V.ゴリツィンと親交を結んだ。87年ウクライナ・コサックの首長に選出された。ロシア政府との関係も良好で,またキエフ・アカデミーの後援者として,マゼパのウクライナは平和な一時期を享受した。しかし1700年に北方戦争が始まり,ウクライナが荒廃の危機に立たされたとき,マゼパはロシアから離脱することを図って,スウェーデンのカール12世と手を結んだ。しかし09年7月,ポルタワ会戦ピョートル大帝のロシア軍に敗北を喫して,トルコへの亡命を余儀なくされ,まもなく世を去った。
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百科事典マイペディア 「マゼパ」の意味・わかりやすい解説

マゼパ

ウクライナ・コサック頭目ヘトマン)。ポーランド宮廷で教育を受け,ロシア皇帝ピョートル1世の信任を受けた。北方戦争半ばにウクライナ独立を策してピョートルを裏切り,スウェーデンに味方したがポルタワの戦に敗れ,トルコにのがれて没。ウクライナで民族的英雄とされている。

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世界大百科事典(旧版)内のマゼパの言及

【ウクライナ】より

…国内は16の地域に分けられ,それぞれにコサックの連隊が駐留してその地を支配した。18世紀初め北方戦争の最中,ヘトマンのI.S.マゼパ(1644‐1709)はロシアからの独立をはかってスウェーデンのカール12世と連合してロシアと戦ったが,ピョートル大帝に敗北し(1709年,ポルタワの戦),ウクライナの自治は制限されていった。エカチェリナ2世はウクライナ・コサックに対する攻撃を強化し,1764年にはヘトマンという役職とその政府を廃止した。…

※「マゼパ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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