精選版 日本国語大辞典 「マイヤー」の意味・読み・例文・類語
マイヤー
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スイスの詩人,小説家。チューリヒの富裕なプロテスタントの家庭に生まれ,15歳のとき父を失う。繊細な感受性と抑うつ症的性格のために,社会への適応能力を欠き,さらに誇り高い母との間の葛藤と自己の才能に対する自信喪失の悩みが高じて1852年に精神病院に数ヵ月入院した。56年に母が抑うつ症の発作から入水自殺し,衝撃を受けたが,同時にそれは古い束縛からの解放でもあった。経済的心配がなかったため,もともと貴族主義的性向の彼は,現実社会に背を向け,歴史と芸術の世界に自己の実存の根拠を見いだそうとした。ミケランジェロに私淑して厳格な形式美を追究し,《フッテン最後の日々Huttens letzte Tage》(1871)によって詩人としての名声を得た。50歳で結婚し,娘も誕生して,生活に自信が生まれ,妻の内助の功により,豊かな創造期をむかえた。マイヤーの詩は,しばしば〈言語による彫刻〉と呼ばれる。たとえば《ローマの噴水》《ふたつの帆》にみられるように,整った形式,客観的な描写,言葉の象徴性が彼の詩の特徴で,この意味でマイヤーは,ゲオルゲ,リルケの先駆となった詩人である。彼は好んで歴史に題材をとったが,自己の主観と個性を直截に表現するにはそれが最適だと考えたためである。小説には,《ユルク・イェナッチュ》(1874),《説教壇からの発砲》(1877),《聖者》(1879),《尼僧院のプラウトゥス》(1881),《僧の婚礼》(1884),《ペスカラの誘惑》(1887)などの代表作がある。マイヤーは生涯ひそかに発狂をおそれつづけてきたが,ついに92年に再び精神病院に入院,約1年後に退院したが,もはや創作の筆をとることはできなかった。
執筆者:増田 義男
ドイツの医者,物理学者。ハイルブロンの生れ。チュービンゲン大学で医学を学ぶ。1838年学位を取得した後,パリで勉強を続け,40年2月から41年2月までオランダの帆船に船医として乗り組んだ。この間,熱帯で水夫の瀉血(しやけつ)をした際,静脈血が寒冷地の場合に比べて鮮やかな色をしているのに気づき,体内での燃焼過程と体温の発生との関係について考えをめぐらし,エネルギー保存則の発見に至る着想を固めた。すなわち,動物熱が食物の酸化によって生み出されるというラボアジエの理論に強く印象づけられていた彼は,身体が仕事をする場合に生ずる熱もやはり摂取した食物に起源をもつとの仮定に立ち,熱と仕事は相互に転換可能だという着想を得たのである。
ハイルブロンに帰って最初に書いた論文は,不備もあって掲載を拒否されたが,翌42年の《無生命的自然の諸力についての覚え書》と題する論文はリービヒの編集していた《化学薬学年報》に掲載された。この中で彼は熱と仕事との相互転換とそれらの間の量的な保存がエネルギー(当時は〈力〉と呼ばれていた)のあらゆる形態に適用されうるということを強調したばかりでなく,ゲイ・リュサックの行った実験に基づいて,気体の体積変化と温度変化との関係から熱の仕事当量を計算したのであった。その後,45年の自費出版の論文《生物の運動と物質代謝との関連》および48年のやはり自費出版の論文《天体力学への寄与》においてもエネルギー保存則を展開した。しかしながら彼の論文は学界の注目を集めるには至らず,正当な評価を得ることができたのは,J.ティンダルらがその真価を明らかにしてからで,60年代に入ってからのことであった。
執筆者:山口 宙平
ドイツの公法学者。はじめ弁護士として実務に携わったが,後に大学教授の資格を得て,シュトラスブルク大学,ライプチヒ大学の教授となった。近代ドイツの行政法学の創始者である。それまでドイツの行政法学は,個別の行政分野の法令を記述するにとどまる国家学的方法によっていたが,マイヤーはフランス行政法に刺激をうけつつ,法学的方法によって,行政主体と私人の法律的関係を体系的に基礎づけた。彼の構成した行政法学上の概念である法律の支配,行政行為,特別権力関係,営造物等は,その法学的方法とともに,後のドイツ行政法学の基礎となった。明治憲法のもとにおける日本の行政法学にも大きな影響を与えた。主著に《フランス行政法の理論》(1886)と《ドイツ行政法》(1,2巻)(第1版1895年,第2版1914年,第3版1924年)がある。ワイマール憲法制定後に公刊された《ドイツ行政法》(第3版)の序文に記された〈憲法は滅びる,行政法は存続する〉という言葉は,行政法の性質の一面を描いたものとして,著名である。
執筆者:塩野 宏
ドイツ生れのアメリカの動物分類学者,進化生物学者。1926年にベルリン大学で博士号を得た後,同大学動物学博物館の助手となり,28-30年にかけてニューギニアとソロモン諸島で鳥類調査を行う。32年にアメリカに渡り,53年までアメリカ自然史博物館に籍を置く。その間に膨大な数の鳥類標本を研究し,生物学的種の概念と種分化における地理的隔離の重要性に思い至る。そのような考えをまとめた《系統分類学と種の起源》(1942)は,いわゆる進化の総合説が誕生するうえで重要な役割を果たした。53年にはハーバード大学比較動物学博物館の教授となり,61-70年には同館長を務め,75年からは同名誉教授。1963年に発表した大著《動物の種と進化》では分布域の周辺部における種分化の重要性を強調し,総合説を確立したが,遺伝学中心の進化学者とは異なる幅広い視野で現代進化論者の中でも独自の位置を占めている。引退後は科学史研究に転じて,大著《生物学思想の発展》(1982)を著した。
執筆者:浦本 昌紀+渡辺 政隆
ドイツの化学者。チューリヒとビュルツブルクで医学を修め,ハイデルベルクでR.W.ブンゼンに化学を,ケーニヒスベルクでノイマンF.E.Neumann(1798-1895)に数理物理学を学んだ。ブレスラウ,カールスルーエなどで教えた後,1876年より死ぬまでチュービンゲン大学に勤めた。S.カニッツァーロの原子量を用い,原子量差と原子価に注目して元素の分類を早くより試み(1862,1868年),1869年3月のD.I.メンデレーエフの元素分類に刺激され元素族の主族・亜族関係を明示した表と,元素の性質の原子量に対する周期的変化をグラフ化した原子容曲線を含む論文を同年12月に提出した。彼の教科書《化学の現代理論》(初版1864,第5版1884)は広く読まれ,アボガドロの仮説,周期律を含め化学理論の普及に貢献した。ほかに血液中のガス吸収に関する先駆的仕事や,化合物の物理的諸性質に関する多くの研究がある。
執筆者:梶 雅範
ドイツの有機化学者。ベルリン生れ。ベルリン大学に入ったがハイデルベルク大学に転じ,R.W.ブンゼンに分析化学を学び,18歳で学位取得,ベルリンに戻りJ.F.W.A.vonバイヤーのもとで有機化学の研究に携わった。チューリヒ工科大学,ゲッティンゲン大学,ハイデルベルク大学の教授を歴任。気体分子量測定法として有名な〈ビクトル・マイヤー法〉の考案(1878),オキシム生成の反応(1882),チオフェンの発見(1883),〈立体化学stereochemistry〉という用語の提唱(1888),オルトに置換基を有する安息香酸がエステル化しにくいことを発見して〈立体障害〉と呼ぶなど(1894),化学の発展に大きな影響を及ぼしたが,病弱のため自殺した。
執筆者:岩田 敦子
アメリカ精神医学の中心的精神科医で,精神生物学の提唱者。スイスに生まれ,チューリヒ大学卒業後,パリ,ロンドンに学び,C.ダーウィンやJ.H.ジャクソンの影響を受けた。1892年に渡米し,神経病理学を担当するとともに精神科臨床に従事した。コーネル大学教授を経て1910年ジョンズ・ホプキンズ大学教授,13年同大ヘンリー・フィップス病院初代院長となり,41年引退した。クレペリンをアメリカに紹介し,S.フロイトの精神分析を評価はしたが同調はしなかった。精神障害を不適応反応として生物,心理,社会の各側面を総合して全体的にみるべきであるとし,精神衛生運動を推進した。
執筆者:浅井 昌弘
ドイツの錬金術師。パラケルススを信奉する医者で哲学者でもある。ドイツの二,三の大学,さらにイタリアのパドバにも3年間学び,のち多くの学者でにぎわうプラハの神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の居城に伺候し,そこで侍医もつとめた。イギリス,スウェーデンなど広く旅し,薔薇(ばら)十字団に似た結社を設立し,象徴的で珍奇な挿絵入りのなぞめいた数種の金属変成書を著した。
執筆者:大槻 真一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの有機化学者.ベルリンに生まれる.ハイデルベルク大学で化学を学び,18歳で学位を取得後,R.W.E. Bunsen(ブンゼン)の助手,さらに1868年ベルリン大学のJ.F.W.A.von Baeyer(バイヤー)の助手となった.1872年チューリヒ工科大学教授,1885年ゲッチンゲン大学教授となり,1889年ハイデルベルク大学教授となった.ベンゼン環にカルボキシル基を導入する方法や,サリチル酸がオルト誘導体であることを発見し,ニトロメタンをはじめて合成し(1872年),また脂肪酸ニトロ化合物が還元によってアミンになることを示した.そのほか,ヒドロキシルアミンとアルデヒド,ケトンからオキシムを合成し(1882年),ベンゼンの呈色反応を研究中にチオフェンを発見した(1882年).立体化学という名称を提案し,反応に及ぼす立体障害の影響を論じたのもかれが最初である.また,蒸気密度測定装置を発明した.晩年は病に苦しみ,うつ病から自殺した.
ドイツの化学者.はじめ医学を学び,1854年ビュルツブルク大学で医学博士号を取得.生理化学に転じてハイデルベルク大学のR.W.E. Bunsen(ブンゼン)のもとで学び,ブレスラウ大学で1858年に哲学博士号を取得.同大学,ノイシュタット-エベルスバルデ林業学校,カールスルーエ工科大学を経て,1876年よりチュービンゲン大学化学教授.1860年カールスルーエで開かれた史上初の国際化学者会議に参加し,配布されたS. Cannizzaro(カニッツァーロ)の原子量の論文を基礎に,1864年最初の元素分類を行い,1868年さらにこれを発展させて元素の周期表に近づいた.1869年3月のD.I. Mendeleev(メンデレーエフ)の最初の周期表に刺激されて,同年末,原子容の原子量に対する周期的変化を示した有名なグラフを提出し,さらに周期表を改良した.第5版を重ねたかれの主著“化学の近代的理論”(1864年初版)は化学の基礎原理普及に大きく貢献した.ほかに血中ガス,ベンゼンの置換反応,有機化合物の構造と沸点の関係などの研究がある.なお,本人は,しばしばJuliusを省略してLothar Meyerと署名した.
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
メイヤーをも見よ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…その後,音楽学,心理学を中心として研究が進められる。現在の音楽認知研究は第2次大戦後のマイヤーL.Meyerの研究に負うところが大きい。その後,人工知能など,情報科学分野からの参入もあり,1980年代以降は研究の量・幅とも,急速に拡大している。…
…ギリシア神話でヘリオス,アポロンと同一視される太陽は,錬金術では金属位階の最高にある金としばしば等置された。ドイツの医師・錬金術師M.マイヤーによれば,地球の内部に宿る黄金は天空に輝く太陽の似姿にほかならない。太陽は地球の周囲を回転しつつ,影響力を地心に及ぼし,己が像を黄金として刻印したのである。…
…ともあれ,パラケルススの医化学思想は,鉱物薬品の製法に向かい,自然の諸物に内包されているあの第5のエッセンスである〈精〉をとり出す方法をさらに発展させ,金属に関する水銀‐硫黄のアラビア錬金術の理論を万物に適用して,キリスト教の三位一体的な水銀‐塩‐硫黄の3原理論を展開した。 ドイツ,さらにフランス,イギリス,オランダなどに浸透した錬金術思想は,宗教,哲学,文学,化学技術その他のさらに大きなるつぼとなり,M.マイヤー,J.ベーメ,N.フラメル,ノートンThomas Norton,リプリーGeorge Ripley,E.アシュモール,J.B.vanヘルモントなど多くの逸材が輩出した。そればかりか,その後に近代化学や近代力学を確立したイギリスのR.ボイルやニュートンらの精神も,錬金術思想が内蔵する深い知恵で養い育てられた。…
…一方,すでに19世紀初めに,アメリカの技師W.トムソン(のちのランフォード伯)は,大砲の砲身を削っていくといくらでも熱を発生することから熱の物質説に反対し,熱が何か物質内の運動に起源をもつものであることを主張した。1840年ごろ,ドイツの医師J.R.vonマイヤーは,瀉血(しやけつ)の際の患者の血の色がヨーロッパと熱帯の国々とで異なることに暗示され,力学的現象と熱現象を合わせて(さらにはもっと一般に他の形のエネルギーも含めて)エネルギー保存則が成り立たねばならないことを指摘した。実際,彼はそれに基づいて観測された気体の定圧,定積比熱の値の差から,(ジュールの実験を知らずに)理論的に熱の仕事当量の値のおおよその値を見積もることに成功している。…
… かような形式的法治国家の観念は,時の経過とともにドイツでは,一般国家学上の原理というよりはむしろ,行政権に対する法律的拘束の原理として,行政法学の領域において一般の注目をひくようになった。そうして,このような形式的法治国家の観念に理論的体系づけを与え,それをいっそう精密化したのが,ドイツ行政法学の創始者といわれるオットー・マイヤーOtto Mayerである。彼によれば,法治国家は,次のような二つの内容をもつと考えられる。…
…マイヤーE.Mayrが,〈種の分化には場所的な個体群隔離の過程が不可欠である〉という進化的法則の提唱(1942)の中で定義した語で,同所性の対語。〈二つ以上の種または亜種が繁殖の場を重複せずに分布する状態〉と定義される。…
…マイヤーE.Mayrが,〈種の分化には場所的な個体群隔離の過程が不可欠である〉という進化的法則の提唱(1942)の中で定義した語で,同所性の対語。〈二つ以上の種または亜種が繁殖の場を重複せずに分布する状態〉と定義される。…
…マイヤーE.Mayrが2種(以上)の動物個体群の在り方と地理的種分化の関係を説明するために提唱(1942)した概念で,異所性の対語。〈異なる種の個体または個体群が同じ地域に重複分布している状態〉と定義される。…
…A.マイヤーとその学派によって提唱・発展させられた力動精神医学で,S.フロイトの学説とともにアメリカ精神医学の基礎を形成した。精神障害を,あるパーソナリティ(人格)が社会的におかれた状況に対して起こす病的な反応としてとらえる。…
…
[化学結合における電子配置の役割]
原子内には原子番号と同数の電子があるが,その電子は3種の量子数(n,l,m)によって規定される原子軌道atomic orbitalに,スピン量子数msに関する制限であるパウリの原理とフントの規則を課されて,エネルギーの低いほうから順次配置される。この原子の電子配置は,D.I.メンデレーエフやJ.L.マイヤーによって見いだされた元素の諸性質の周期性(1869)と密接に関連しており,原子の化学的性質は主としてその電子配置に支配されていることが明らかにされた。そのなかで化学結合との関係で重要なことは次の3点である。…
…極小より原子番号の小さい部分には金属的な元素が,反対側には非金属元素が並ぶ(図)。1868年,ドイツのJ.L.マイヤーは原子容と原子量との間にこれと似た関係を見いだし,これが元素の周期律を表すものであることを初めて指摘した。周期律【藤本 昌利】。…
…これらは現在の周期律の最初のいとぐちをつかんだものであったが,あまりにも独創的な内容と新奇な表現のため,その価値を認められなかった。 しかしさらにドイツのJ.L.マイヤーは,原子を原子量の順番にならべた番号(これは現在の原子番号に対応する)と元素の諸性質との関係を系統的,定量的にくわしく検討し,1869年に,〈原子容曲線〉(原子容)のように,それらの性質が原子番号の周期的関数として変化することを明確にし,また同年,ロシアのD.I.メンデレーエフは,これと独立に,元素の原子価,化合物の型式などの化学的性質をも十分考慮に入れて,現在用いられているものと本質的に同様な型式の周期表を完成した。当時はまだ未発見の元素が多かったので,メンデレーエフの周期表には多くの空欄があり,一見たよりない印象を与えるものであったが,その後それらの空欄に該当する元素がつぎつぎに発見され,それらの性質がメンデレーエフが近隣の元素の性質から予測したものとまったく一致したことから,周期律に対する学界の信頼はにわかに高くなった。…
…硫黄を含む5員環の複素環式化合物。コールタールからとったベンゼンより,1882年,マイヤーV.Meyerによって単離された。沸点84.4℃の液体で,ベンゼンに似た弱い芳香をもつ。…
…硫黄を含む5員環の複素環式化合物。コールタールからとったベンゼンより,1882年,マイヤーV.Meyerによって単離された。沸点84.4℃の液体で,ベンゼンに似た弱い芳香をもつ。…
※「マイヤー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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