ポーロ(英語表記)polo

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポーロ」の意味・わかりやすい解説

ポーロ
polo

スペインのフィリピン支配において 1580年に定められた強制労働制度。首長とその長男を除く全成年男子 (16~60歳) は年間 40日の賦役義務を負った。 1884年に年間 15日に軽減されたが,制度自体は存続した。賦役に対しては賃金と米の支給が定められ,またその濫用を禁じる条項もあったが,ほとんど無視され,住民貧困と飢えに苦しんだ。バンダーラ (生産物の強制的売渡し制度) とともに,スペインの悪政典型とされる。

ポーロ

マルコ・ポーロ」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディア 「ポーロ」の意味・わかりやすい解説

ポーロ

イタリアの旅行家。ベネチアの人。1270年父,叔父に伴われて東方旅行に出発,シルクロードを通って1274年に元の夏の都である上都(内モンゴルのドロン・ノール)についた。世祖フビライに17年間仕えて色目人として遇され,その間に諸方を旅し,1290年海路で帰国の途につき1295年ベネチアに帰った。獄中で口述した《東方見聞録》は大きな影響をもった。
→関連項目ジパング臨安

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世界大百科事典 第2版 「ポーロ」の意味・わかりやすい解説

ポーロ【Marco Polo】

1254‐1324
中世ベネチア共和国の市民。その先祖は11世紀のころダルマティアから移住したと伝えられるが,正確にたどれる家系は祖父までである。ベネチア移住からマルコの代まで数世代を経て,父ニッコロ,叔父マッテオの兄弟は東方貿易に従事する商人であった。当時ベネチアはジェノバと並んで東方貿易で繁栄し,その商線はシリアから黒海を縦断してクリミア半島に達していた。1260年商用でコンスタンティノープルにいたニッコロ兄弟は商利を追ってクリミアを越え,さらにボルガ下流に位するキプチャク・ハーン国の首都サライに達した。

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世界大百科事典内のポーロの言及

【トリブート】より

…スペイン植民地下のフィリピンで施行された人頭税制度。スペイン政庁はトリブート,ポーロpolo(強制労働)の二つの制度を用いて,フィリピン住民から過酷な収奪を行った。トリブートは1家族または成年に達した2人を一組とする貢納単位(トリブタリオ)ごとに課せられ,その額は制定時の1571年には1年につき銀8レアル,17世紀以降はおおむね10レアルであったが,1851年に12レアル,74年に14レアルに増額され,84年に廃止された。…

【印刷】より

…もちろんこうした通説に対し,これを反論する資料がまったくないわけではないが,まだ結論がでていない。 ヨーロッパに印刷術を紹介したのはマルコ・ポーロであったという説がある。周知のようにイタリアのベネチアに生まれたこの人物は元の世祖フビライに仕えて親任があり,1292年に帰国したときに印刷された紙幣を持って帰り,これが契機となってイタリアで木版印刷が行われるようになったという。…

【真珠】より

…F.ベーコンは真珠を長寿の薬に分類している。マルコ・ポーロは《東方見聞録》のなかに,チパング島(日本)では土葬にするとき,死者の口の中に真珠を一つ入れると書いているが,これはむろん正しくない。おそらく真珠は東洋のものという固定観念があったために,こんな幻想を思い描いたのであろう。…

【東方見聞録】より

…マルコ・ポーロが1270‐95年にわたる東方旅行でえた知識を記憶とメモによって口述し,これをピサの物語作者ルスチケロが記録したもの。その内容は,序章でこの旅行が敢行された経緯,中国に至って元朝に仕えた模様およびイル・ハーン国使臣に同伴して帰国するにいたった事情を略述し,続く本文では西・中央アジアを横断する行程の子細,モンゴル朝廷の諸事情,中国国内旅行でえた見聞および帰路の航海で経過した南海諸国の実況を報告する。…

※「ポーロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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