ポンペ(読み)ぽんぺ(英語表記)Johannes Lydius Catherinus Pompe van Meerdervoort

精選版 日本国語大辞典 「ポンペ」の意味・読み・例文・類語

ポンペ

(Jonkeer Johannes Lydius Catherinus Pompe van Meerdervoort ヨンケール=ヨハンネス=リディウス=カテリヌス━ファン=メールデルフォールト) オランダの海軍医。安政四年(一八五七)来日、長崎養生所を建て、西洋医学を教授した。文久二年(一八六二)帰国。著「日本における五年」など。(一八二九‐一九〇八

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デジタル大辞泉 「ポンペ」の意味・読み・例文・類語

ポンペ(Johannes Lydius Catherinus Pompe van Meerdervoort)

[1829~1908]オランダの軍医。江戸幕府海軍伝習所の医師として、安政4年(1857)来日。長崎養生所を設立し、医学教育を教授した。文久2年(1862)帰国。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポンペ」の意味・わかりやすい解説

ポンペ
ぽんぺ
Johannes Lydius Catherinus Pompe van Meerdervoort
(1829―1908)

オランダの軍医。1857年(安政4)11月、長崎奉行所(ぶぎょうしょ)西役所で始まった西洋医学伝習のオランダ人教師。この日本における最初の近代医学教育が、海軍伝習という海防力強化の一環として、幕府直参ならびに諸藩伝習生を対象に官費で行われたことが注目される。

 ポンペは、1849年ユトレヒトの陸軍軍医学校を卒業、オランダ領東インドで軍隊勤務ののち、1857年9月陸軍外科二等軍医として長崎に到着、幕府の海軍伝習所閉鎖後も引き続き医学教育に従事した。1859年外国人による初めての人体解剖を行い、1861年(文久1)には長崎に日本最初の洋式病院である長崎養生所(120床)を建て、身分貧富にかかわらず治療を行うとともに、伝習生の教育にあたった。この長崎医学伝習の日本側責任者は幕府奥医師の松本良順(まつもとりょうじゅん)で、伝習生のなかから佐藤尚中(さとうしょうちゅう)、関寛斎(せきかんさい)、岩佐純(いわさじゅん)(1836―1912)、池田謙斎(いけだけんさい)(1841―1918)、長与専斎(ながよせんさい)ら明治医学界の指導者たちが輩出した。ポンペは1862年長崎を去り、帰国したが、1867~1868年にライデンで『日本における五年間』を出版した。ブリュッセル死去

[神谷昭典 2018年8月21日]

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朝日日本歴史人物事典 「ポンペ」の解説

ポンペ

没年:1908.10.7(1908.10.7)
生年:1829.5.5
近代医学教育を日本ではじめて組織的に実施した。名は正しくはポンペ・ファン・メールデルフォールト。オランダのブルッフェ(ベルギーブルージュ)に生まれ,1849年にユトレヒトの陸軍医学校を卒業。3等軍医に任命されて,1850年から東インド会社の軍艦に乗船。安政4(1857)年に第2次海軍伝習派遣隊(隊長カッテンデイケ)の2等軍医として咸臨丸で来日。日本側の要望で医学を教えることになり,はじめ長崎西役所で松本良順(順)らに物理,化学,植物学を教えて,西洋医学教育が基礎的学問から始まることを知らしめた。さらに本格的な医学教育には病院が必要と幕府に建議し,文久1(1861)年に長崎養生所と長崎医学所を完成させた。これが日本最初の近代的西洋医学校と病院となった。安政5年のコレラ大流行時には防疫指導に当たった。 その教育内容が蘭学による西洋医学と根本から異なったことから,全国から新知識を求める者が長崎養生所に集まった。直接教育を受けた者が133名,治療を受けた者が14530名を数えた。文久2年に最初の幕府留学生を伴って帰国し,帰国後も留学生の世話を続けた。ハーグで開業,また赤十字中央委員会のメンバーとして普仏戦争で赤十字派遣医療団の代表を務めた。1874年に外交顧問として2年間榎本武揚日露公使を助け,ロシアから帰国後はベルヘン・オプ・ゾームで開業。牡蠣養殖も始めたが,1890年の寒波で大打撃を受けて倒産。晩年はベルギーの各地を転々とし,ブリュッセルで没した。著書『ポンペ日本滞在見聞記』(1866)で幕末の日本を紹介した。<参考文献>長崎大学医学部編『長崎医学百年史』,石田純郎他『医学の近代化と来日外国人』

(酒井シヅ)

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改訂新版 世界大百科事典 「ポンペ」の意味・わかりやすい解説

ポンペ
Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort
生没年:1829-1908

幕末に来日したオランダの海軍軍医。日本が系統的な西洋医学を導入するのに大きな役割を果たした。ベルギー生れ。ユトレヒト大学卒,海軍軍医となり,1857年幕府から招かれ第2次海軍伝習所医官として着任。在日5年間,幕府医官松本良順を中心に全国から集まった医学生を中心に,人体解剖・臨床医学講義を含む幅広い教育を行い,これらの多くは講義録として残されている。コレラ予防,性病予防,種痘にも従事。61年彼の要請で長崎養生所を建てたが,これは,日本における近代病院の最初であるとともに,長崎大学医学部の原点ともなっている。良順のほかに佐藤尚中,司馬凌海,入沢恭平,長与専斎,戸塚文海,岩佐純,佐々木東洋らが学び,日本における西洋医学・公衆衛生の実施・普及の原動力となった。62年に日本を去り,ハーグで開業し,赤十字委員となり,またペテルブルグの日本大使館に勤務した。この間,駐ロシア日本公使榎本武揚の顧問となったり,日本の赤十字加盟についての援助をなすなど,帰国後も日本に尽くすところ少なくなかった。著書に《日本滞在記》がある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ポンペ」の意味・わかりやすい解説

ポンペ

オランダ海軍軍医。江戸幕府の要請で1857年長崎の海軍伝習所の医学教育の教官として来日,在日5年間に長崎養生所などを開き,予備学科から解剖実習,臨床講義まで本格的医学教育を行った。松本良順,長与専斎など多くの逸材を育て日本近代医学の基礎を築いた。離日後も日本の赤十字加盟に援助するなどした。著書《日本滞在見聞記》。→赤十字社
→関連項目松本良順

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポンペ」の意味・わかりやすい解説

ポンペ
Pompe van Meerdervoort, Johannes Lidius Catharinus

[生]1829.5.5. ブルーヘ
[没]1908.10.7. ブリュッセル
オランダの医師。ユトレヒト軍医学校卒業。 1849年海軍軍医となり,安政4 (1857) 年江戸幕府が招いた最初の外人医学教官として長崎に到着。長崎海軍伝習所で医学を教え,同5年大流行したコレラの防疫にあたった。文久1 (61) 年に創設された長崎養生所はポンペの建言によるもので,日本最初の近代的な西洋式病院である。門下から松本良順,佐藤尚中,長与専斎,佐々木東洋,岩佐純ら明治医学界の指導者が輩出した。同2年帰国後もハーグの市参事委員や赤十字代表として活躍し,75~77年に駐ロシア公使榎本武揚の顧問として,ペテルブルグに随行した。回顧録に『日本における5年』 (67) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ポンペ」の解説

ポンペ Pompe van Meerdervoort, Johannes L.C.

1829-1908 オランダの医師。
1829年5月5日生まれ。安政4年(1857)第2次海軍伝習派遣隊の軍医として来日。長崎で松本順(良順)らに日本最初の西洋医学教育をおこなう。文久元年初の洋式病院,長崎養生所を設立。2年幕府留学生をともない帰国した。のち駐ロシア公使榎本武揚(たけあき)の外交顧問。1908年10月7日死去。79歳。ブリュージュ(現ベルギー領)出身。ユトレヒト陸軍医学校卒。

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367日誕生日大事典 「ポンペ」の解説

ポンペ

生年月日:1829年5月5日
オランダの医師
1908年没

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世界大百科事典(旧版)内のポンペの言及

【医学】より

… 幕府は西欧軍事技術とともに軍陣医学技術を導入させるべく,長崎に海軍伝習所とともに,医学の教養施設をつくった。医学については,オランダより招聘(しようへい)した軍医ポンペを師とし,日本側は,幕臣松本良順をはじめ各藩より選択されたものが学生となって,初めて西欧式の系統だった医学教育がおこなわれた。とくに臨床実習のために,小島という場所に西欧風の病院を建築しておこなうなど,本格的である。…

【手術】より

…当時の外科医としては青洲の門弟の本間棗軒(そうけん)や,順天堂をおこした佐藤泰然らが知られる。1853年(嘉永6)のペリーの黒船到来前後から幕府は西洋の軍事技術とともに西洋医学をも導入すべく努めるようになり,57年(安政4)にはオランダ海軍軍医のポンペを海軍伝習所医官として長崎に招いて西洋医学の講義を行わしめた。これは日本最初の公的な西洋医学教育であり,後日この教育を受けたもののなかから日本医学の指導者と目されるような人々が育った。…

【長崎養生所】より

…1861年(文久1)長崎に建てられた日本最初の近代的洋式病院(官立)で,近代医学教育の原点となった。蘭医ポンペの要請で小島郷佐古に同年7月1日に落成。病室8で各室15床からなり,ほかに隔離室と手術室4,料理室,浴室,運動室などをもつ木造2階建洋風建築であった。…

【病院】より

… 西欧式の病院は,16世紀キリスト教の伝道とともに西日本のいくつかの都市に設けられたが,教団本部からの医療伝道の禁止令によって廃された。したがって1861年(文久1)に江戸幕府が西洋医学伝習のため,オランダ人教師ポンペの建言によって長崎に設立した養生所(長崎養生所)が,日本における病院の始まりといえる。ただしポンペは,当時のオランダの教育病院のように,貧困階層の病人を収容して,教育に協力させることを考えたが,日本側は,西欧式の近代医療を受けられる施設であると理解して,上層階層のものが多く入院した。…

※「ポンペ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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