ボスニアヘルツェゴビナ(英語表記)Bosnia and Herzegovina

精選版 日本国語大辞典 「ボスニアヘルツェゴビナ」の意味・読み・例文・類語

ボスニア‐ヘルツェゴビナ

(Bosnia-Herzegovina) バルカン半島西部、アドリア海に面する国。北部ボスニアと南部のヘルツェゴビナからなる。一五世紀以降オスマン‐トルコ領。一八七八年オーストリアハンガリー帝国の保護領となり、一九〇八年に併合された。第一次世界大戦後、ユーゴスラビア王国の州となり、一九四六年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国となる。九二年、ユーゴスラビアの解体に伴い独立。住民はセルビア人クロアチア人・ボスニア人。首都サラエボ

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デジタル大辞泉 「ボスニアヘルツェゴビナ」の意味・読み・例文・類語

ボスニア‐ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)

ヨーロッパ南東部、アドリア海に面する共和国。北部のボスニアと南部のヘルツェゴビナとからなる。首都サラエボ。15世紀以降オスマン帝国領。1908年オーストリアハンガリー帝国に併合され、第一次大戦の発端となるサラエボ事件が起きた。1946年ユーゴスラビアで共和国を形成。1992年、ユーゴスラビアの解体・再編に伴い独立。人口349万(2019)。ボズナ‐ヘルツェゴビナ。

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改訂新版 世界大百科事典 「ボスニアヘルツェゴビナ」の意味・わかりやすい解説

ボスニア・ヘルツェゴビナ
Bosnia and Herzegovina

基本情報
正式名称ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国Republika Bosna i Hercegovina/Republic of Bosnia and Herzegovina 
面積=5万1209km2 
人口(2010)=384万人 
首都=サラエボSarajevo(日本との時差=-8時間) 
主要言語セルビア語,クロアチア語 
通貨=マルカMarka

旧ユーゴスラビア連邦を構成した一共和国。1991年10月に独立を宣言した。北部のボスナBosna(ボスニア)地方と南部のヘルツェゴビナHercegovina地方からなる。旧ユーゴスラビアの総面積の20%を占めていた。首都はボスニア地方のサラエボで,ヘルツェゴビナ地方の中心はモスタル。独立以後,民族間の対立をめぐって厳しい内戦にさらされてきた。

ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は森林地帯で,標高150m以下の地域は約8%以下,平均標高は693mである。気候は南部が地中海式気候,北部が大陸性気候と大別できる。民族構成は,一つの民族としてみなされているイスラム教徒の〈ムスリム〉が約40%,セルビア人が37%,クロアティア人が約21%である。

 産業を概観すると,山がちの地勢および平地の大部分がカルスト層であるため,農耕,とくに機械による大型の農耕に適していない。農耕地は共和国総面積の約10%を占めるにすぎない。ヘルツェゴビナの低地では灌漑設備を整え,野菜やブドウの栽培が行われている。モスタル産のブドウ酒は有名。しかし,全農地の半分以上は牧草地であり,畑作農業より家畜の飼育に適しているといえよう。また,この地方は保護林面積230万ha(ユーゴスラビア全体の44%)ということからもわかるように,豊かな森林資源を利用しての林業が盛んである。工業の面では,豊富な鉱物資源(鉄鉱石,石炭,ボーキサイトアスベスト,鉛,亜鉛など)を使っての金属加工業が最も活況を呈している。機械や電気工業,繊維工業,木材加工業も重要な位置を占める。1984年2月に開催されたサラエボ冬季オリンピックを契機とし,サラエボをウィンター・スポーツの中心地とするなど,観光地化が進められている。

 なおボスニアのトラブニクに生まれたノーベル賞作家アンドリッチの三部作《ドリナの橋》《ボスニア物語》《サラエボの女》(いずれも邦訳あり)は,ボスニア・ヘルツェゴビナの生活を生き生きと描いている。

7世紀前半,ボスニアの北部と西部にクロアティア人,南部と東部にセルビア人が定住した。その後,クロアティア人,セルビア人,ハンガリー人,ビザンティン帝国がこの地方の一部を交互に支配したが,12世紀後半にクリンKulin(在位1180-1204)が中世のボスニア王国を統一した。東と西の分岐点に位置するボスニアは,ローマ・カトリックと東方正教会双方の影響を受けた。しかし,マケドニアボゴミルが開祖とされる中世の異端ボゴミル派がボスニアに浸透し,この異端はクリンの時代に国教とされ,ボスニア史に多大な影響を及ぼすことになった。一時ハンガリー王国の支配下に置かれたボスニアは,14世紀入るとコトロマニッチKotromanić(在位1322-53)が統治者に選出され,南部のフムHum(のちにヘルツェゴビナと呼ばれる)をも支配下に置き,ボスニアとヘルツェゴビナ統一の基礎をつくった。彼の後継者トブルトコTvrtko(在位1353-91)はさらに自らの領土を拡大し,衰退しつつあった隣接のセルビア王国に代わり,バルカン最強の国となった。しかしトブルトコの死後内紛が生じ,フム地方は有力者ブクチッチVukčićにより統治された。ブクチッチはしだいにボスニアの支配下を離れ,フム地方を独立の国家として,〈聖サバ公(ヘルツォークHerzog)〉を名のった(1448)。ここから,フムはヘルツェゴビナと呼ばれるようになる。

 14世紀後半からバルカン半島に進出していたオスマン帝国は,南スラブ諸民族の国をもその領土に加え,ついに1463年にはボスニアを,82年にはヘルツェゴビナを支配下に置いた。以後400年以上にわたり,オスマン帝国の支配をうけることになる。オスマン帝国に吸収されたあと,この地方の支配層はボゴミル派を捨てて,イスラムに大量改宗した。この結果,彼らは支配的な地位を保持し,トルコ人以上に同民族であるキリスト教徒の農民たちを厳しく統治した。現在でもボスニア・ヘルツェゴビナ共和国には,民俗的にはセルビア人かクロアティア人である多数のイスラム教徒が存在し,自らをひとつの〈民族〉であると主張している。

 16世紀後半の最盛期を過ぎると,オスマン帝国は内外の諸要因から衰退の道をたどった。こうしたなかで,19世紀のナショナリズムの時代にいたると,オスマン帝国支配下の諸民族の間にも民俗的な運動が発生した。1875年,ヘルツェゴビナのネベシニェ村の農民がオスマン帝国支配に対する反乱を起こした。この反乱は数週間のうちにボスニア地方にも拡大し,隣接の南スラブ地域にも,また国際的にも大きな影響をもたらした。すなわち,隣接のセルビア公国やモンテネグロ公国は農民反乱を援助するため,オスマン帝国に宣戦布告し,これが引金となって露土戦争を誘発した。結局オスマン帝国は敗北し,ボスニア・ヘルツェゴビナは78年のベルリン条約(ベルリン会議)により,オーストリア・ハンガリー二重帝国の行政管理下に置かれることになった。

 バルカン進出への足場を築いたオーストリアの統治下で,一定の近代化は進められたが,土地改革などは実施されず,82年にはハプスブルク帝国軍への徴兵に反対する農民反乱が起こった。イスラム教徒地主とキリスト教徒農民との対立は相変わらず克服されなかったし,隣国セルビアとの合併の気運も強まっていた。このためオーストリア・ハンガリーでは,20世紀に入るとすぐに,ボスニア・ヘルツェゴビナ併合の声が上がった。しかし併合を決定的にしたのは,オスマン帝国の近代化を目ざす1908年の青年トルコ革命であった。同年10月,オーストリア・ハンガリーはロシアとの交渉を行ったうえで,ボスニア・ヘルツェゴビナの併合宣言した。セルビア人が多数居住するこの地方の領有をもくろんでいたセルビアでは,対オーストリア戦争の気運が高まった。〈ナロードナ・オドブラナ(民族防衛団)〉などの秘密組織も結成された。これに対し諸列強は戦争の回避に努めた。その結果,セルビアは09年3月,オーストリア・ハンガリーのボスニア・ヘルツェゴビナ併合を承認せざるをえなかった。以後,セルビアの対オーストリア感情は極度に悪化し,第1次世界大戦の直接的な原因がつくられた。併合後,ボスニア・ヘルツェゴビナでも,中等学校や専門学校の学生たちによる反オーストリアと南スラブ族の統一を掲げた〈青年ボスニア〉の運動が活発になる。14年6月28日,オーストリア・ハンガリー軍観閲のためサラエボにやってきたフランツ・フェルディナント皇太子夫婦は,〈青年ボスニア〉に属する19歳の青年プリンツィプGavrilo Princip(1894-1918)により射殺された。このサラエボ事件を直接の契機として第1次世界大戦が勃発した。

 第1次大戦の結果,オーストリア・ハンガリーが崩壊し,18年12月にボスニア・ヘルツェゴビナは〈セルビア人クロアティア人スロベニア人王国〉(1929年にユーゴスラビア王国と改称)に統一された。第2次大戦において,森林の多いこの地方は,ドイツ・イタリア枢軸軍やその傀儡(かいらい)政権に対するパルチザン戦争の激烈な舞台となった。43年11月,ユーゴスラビア全土でパルチザン解放戦争を闘っていた人々の代表がボスニアのヤイツェに集まり,ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議の第2回大会を開いた。この大会において,王制の廃止とともに国内の全民族の平等と連邦制による国家体制の基礎がつくられた。こうして,45年11月には憲法制定議会が開かれ,ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言された。92年3月に独立を宣言したが,民族抗争,宗教対立がかえって激化し,内戦に陥った。
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