ボストン(アメリカ合衆国)(読み)ぼすとん(英語表記)Boston

翻訳|Boston

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ボストン(アメリカ合衆国)
ぼすとん
Boston

アメリカ合衆国、マサチューセッツ州東部の都市で、州都。マサチューセッツ湾に臨む、ニュー・イングランド地方最大の都市である。人口58万9141、大都市圏人口581万9100(2000)。合衆国の独立とその後の発展の歴史につねに重要な役割を果たしてきた同市は、現在も経済・商業・教育・文化の中心地であり、世界最大の港湾都市の一つでもある。工業は、19世紀にアイルランドからの多数の移民を迎えたころから急速な発展をみた。古い伝統をもつ皮革・繊維工業から先端技術産業まで、5000以上の企業が集中しており、食品加工、電子・電気機器、印刷・出版、造船などが盛んである。また、文化・教育の中枢としての歴史も古く、「宇宙の中心」「アメリカのアテネ」などと別称され、とくに19世紀中ごろは、エマソンホーソンロングフェローギャリソンといった著名な文化人が各地から集まり、奴隷制度廃止への大きな原動力ともなった。音楽や絵画をはじめとする文化的活動も活発で、ボストン交響楽団を育てるほか、多くの演奏家や画家が世界各地から集まっており、劇場、美術館はつねに活気を呈している。また、ボストン大学、マサチューセッツ大学近郊ハーバード大学マサチューセッツ工科大学が一体となって、合衆国の教育・文化の発展の大きな支えとなっていると同時に、医療センターとしても重要である。市域には、文化施設のほか、史跡が多く保存され、東洋美術収集等で名高いボストン美術館(1869創立)や、マサチューセッツ歴史協会(1791)、ボストン公立図書館(1895)、オールド・ノース・チャーチ、オールド・サウス・ミーティングハウス、旧州会議事堂、ボストン・コモン、ボストン国立歴史公園、ボストン大虐殺跡、バンカー・ヒル記念碑、ファニエル・ホールなど多くの史跡が近代的な都市の中でもしっくりと溶け合い、落ち着いた雰囲気を漂わせている。このため、ニュー・イングランド地方の観光・行楽の拠点都市としても知られる。また、1897年以来続けられているボストン・マラソンも有名である。

[作野和世]

歴史

先住民インディアンがショウマットとよんだ後のボストン地区が、イギリス人によって探検されたのは、1614年のキャプテン・ジョン・スミスが最初である。この地に大々的な入植が始まったのは、1630年にジョン・ウィンスロップが1000人の移民を率いて到着したときで、2年後この地がボストンと名づけられ、マサチューセッツ湾植民地の首都となり、ピューリタンの神政政治の中心地となった。植民地時代末期には人口約1万5000、五大貿易港の一つとして栄えた。アメリカ独立革命に際しては、1765年の印紙税法反対、70年のボストン虐殺事件、72年の通信連絡委員会結成、73年のボストン茶会事件など、つねに革命運動の先頭にたち、75年4月には郊外のレキシントンとコンコードで独立戦争の火ぶたが切られた。最初の激戦地バンカー・ヒルは、チャールズ川対岸のチャールズタウンにある。

 19世紀に入ると、木綿工業を軸とするアメリカ産業革命の中心地として、依然国際貿易上の地位を保ったが、国内通商では西方への水路を欠いたことからニューヨークに先を越された。一方、エマソン、ホーソン、ロングフェロー、ローウェル、ソローなどの文学者や詩人を輩出し、「アメリカのアテネ」と称されるほど、文芸の都として栄えた。すでに植民地時代初期に、対岸のケンブリッジにハーバード大学が設立され、学都としての基礎が築かれた。独立後には公立の図書館や学術協会、美術館や音楽堂などが建設され、ビーコン・ヒルの古雅な住宅街とともに、古い学都としてのたたずまいをいまに伝えている。植民地時代以来、幾度か大火にみまわれたが、最大の被害は1872年の火災で、中心街の800棟が焼失し、被害額は7500万ドルに達した。なお、もとのボストン地区は、海とチャールズ川に挟まれた783エーカー(約317ヘクタール)の狭い岬であったが、沼や入り江が埋め立てられて、1930年までに2倍以上の1800エーカー(約728ヘクタール)に拡張されている。

[富田虎男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android