ホルティ(英語表記)Horthy Miklós

改訂新版 世界大百科事典 「ホルティ」の意味・わかりやすい解説

ホルティ
Horthy Miklós
生没年:1868-1957

ハンガリーの保守政治家オーストリア・ハンガリー最後の海軍提督。第1次大戦末期1918年2月にはカックロ湾の反戦兵士反乱を鎮圧。19年3月にハンガリーにソビエト政権ができると,セゲドに反革命政府を樹立。19年11月反革命軍の先頭に立って首都に入城,白色テロを指導した。20年3月ハンガリー王国摂政となるが,ハプスブルク家のカール4世(オーストリア皇帝カール1世)の復位を拒否。権威主義的反動体制を樹立するが,ゲンベシュ・ジュラらの右翼急進主義やナチズムには批判的であった。第2次大戦末期,ドイツによる占領ののち,44年10月15日に単独休戦をはかるが失敗,権力を親ドイツ的な矢十字党サーラシ・フェレンツに譲った。バイエルンに監禁されたが,戦後アメリカ合衆国に抑留され,51年からはポルトガルに移った。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ホルティ」の解説

ホルティ
Miklós Horthy

1868~1957

ハンガリーの保守政治家。オーストリア‐ハンガリー帝国最後の海軍提督。1919年,軍を率いてブダペシュトに入り,クンのソヴィエト共和国を倒した。20年,国王なき王国ハンガリーの摂政につき,権威主義体制を樹立。親ナチスではなかったが,第二次世界大戦にはドイツ側で参戦。44年連合国と単独講和を図って失敗,権力を奪われ,戦後はポルトガルに亡命

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホルティ」の意味・わかりやすい解説

ホルティ
Horthy Miklós

[生]1868.6.18. ケンデレシュ
[没]1957.2.9. エストリル
ハンガリーの提督,政治家。 1900年オーストリア=ハンガリー帝国の海軍士官,18年提督となり,19年クン・ベーラ革命に対抗し「国民軍」を結成,セゲドに成立した右派政権の国防相となった。 20~44年再建ハンガリー王国の摂政に就任矢十字党を利用し独裁政治を実施,対外的には枢軸側に参加した。第2次世界大戦末期に休戦を決意したが矢十字党の画策のため失敗,戦後ポルトガルへ亡命した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ホルティ」の意味・わかりやすい解説

ホルティ

ハンガリーの軍人,政治家。第1次大戦末期オーストリア・ハンガリー艦隊司令官。1919年クンの共産政権を倒し,1920年以後ハンガリー王国摂政として独裁政治をしく。枢軸国陣営に荷担したが,1944年対ソ接近を図って失脚,親ドイツ的な矢十字党のサーラシに権力を奪われた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ホルティ」の解説

ホルティ
Nagybányai Horthy Miklós

1868〜1957
ハンガリーの政治家・軍人
第一次世界大戦後,クン=ベラの共産政権を倒してハンガリー王国の摂政となり,独裁体制をしいた。第二次世界大戦では枢軸国側についたが,末期に休戦をはかってバイエルンに監禁された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のホルティの言及

【ハンガリー】より

…しかしこの政権も,外国軍の干渉や農業政策の誤り(性急な集団化)のために,わずか133日で崩壊した。こののち王国が復活し(ただし国王はいない),ホルティを摂政とする権威主義的反動体制が成立し,強烈な反ボリシェビズムが広がった。また20年のトリアノン条約で多数のハンガリー人居住地を周辺諸国に割譲したため,戦間期には国境の修正を目ざす熱狂的なナショナリズム(〈修正主義〉と呼ばれた)が国を支配した。…

※「ホルティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android