ホッパー(Dennis Hopper)(読み)ほっぱー(英語表記)Dennis Hopper

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ホッパー(Dennis Hopper)
ほっぱー
Dennis Hopper
(1936―2010)

アメリカの映画監督、俳優。カンザス州南西部ドッジ・シティ郊外の生まれ。幼少期は農場のある母方の祖父母の家で育つ。第二次世界大戦後に父母に引き取られてカンザス・シティへ、さらに1950年にサン・ディエゴへ一家で移住。すでに美術への関心を示していたホッパーは、中学校や高校で演劇や朗読に才能を発揮、1953年から、高校に通いながらサン・ディエゴ・コミュニティ・プレイヤーズ・シアターに参加、映画や舞台で活躍した実力派女優ドロシー・マクガイアDorothy McGuire(1916―2001)らの指導の下、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の舞台に立ち、ナショナル・シェークスピア・フェスティバルの演劇奨学生として『オセロ』や『ベニス商人』などの舞台にも出演した。

 1954年の暮れに、マクガイアの口利きもあってハリウッドへ進出。テレビ・シリーズなどでの演技が評価されて、映画俳優としてワーナー・ブラザーズと7年契約を結ぶ。1955年『理由なき反抗』でジェームズ・ディーンと共演し、俳優としての圧倒的な存在感に衝撃を受ける。公私にわたって行動をともにする仲となり、引き続き『ジャイアンツ』(1956)でやはりディーンと仕事をともにするものの、撮影終了後にディーンが交通事故死、打ちひしがれた日々を送りながら、ハリウッド流の仕事への懐疑を深める。1958年『向う見ずの男』の撮影現場でヘンリー・ハサウェイHenry Hathaway(1898―1985)監督と激しく対立したことから、ワーナーとの契約が撤回され、メジャー・スタジオから追放に近い形となるが、翌1959年から単発的に俳優の仕事はこなすようになる。

 この機会をとらえてホッパーは、ディーンにならってニューヨークのアクターズ・スタジオで演技の鍛錬に励みながら、当時のニューヨークに息づいていたモダン・アートやポップ・アート、ジャズなどの先端的な仕事に心を動かされ、自らも絵画、彫刻、詩作などに手を染めるとともに、これも「アーティストとしての見方を育てるために」との生前のディーンのアドバイスに従って写真を撮りはじめ、『ボーグ』誌や『ハーパーズ・バザー』Harper's Bazaar誌などでカメラマンとして活躍。盛り上がりをみせていたキング牧師らの黒人公民権運動も被写体にすべく南部へ向かうなどした。俳優としては、ニューヨークで親しくなったアンディ・ウォーホルの映画『ターザン・アンド・ジェーン・リゲインド/ソート・オブ』Tarzan and Jane Regained...Sort of(1963)に出演する一方で、ハサウェイに8年ぶりに起用され、『エルダー兄弟』(1965)でジョン・ウェインと共演。この前後からドラッグ・カルチャーなどの時代の流れもあってドラッグ漬けの日々が始まる。1967年、ジャック・ニコルソンが脚本を執筆したロジャー・コーマン監督作品『白昼の幻想』でピーター・フォンダPeter Fonda(1939―2019)と共演、ドラッグによるトリップ・シーンでは、2人で演出にも携わり、ここで形成されたコンビネーションが問題作『イージー・ライダー』(1969)へと継続された。アメリカ映画の新しい潮流「ニュー・シネマ」の代名詞ともいえるこの作品は、もともとフォンダが提案した、馬ではなくオートバイに乗る人物による西部劇というアイデアを起点に、フォンダが主演と製作、ホッパーが共演と監督、ニコルソンも出演という形で撮影された。アメリカを縦断する2人のバイク乗りが異分子を嫌う不寛容な住人によって殺害される衝撃的なラストシーンに集約されるように、ベトナム戦争や公民権運動の高まりなどで民意が激しく対立した1960年代末のアメリカの現実をリアルに映し出す内容から、単にロック、ドラッグ、ヒッピーといった目新しい風俗を売りにする映画とは異なるものとの評価を受け、ホッパーはカンヌ国際映画祭で新人監督賞を獲得、受賞こそ逃したがアカデミー賞でも脚本賞でノミネートされた。

 40万ドル以下の予算で製作された『イージー・ライダー』は、総額にして5000万ドルを超える収益をあげた。「若者文化」の旗手ホッパーはハリウッドから収益を期待できる新人監督として注目されるようになり、ホッパーもこの機会を逸することなく数年来温めてきた念願の企画の実現に動く。それは、『エルダー兄弟』のメキシコ・ロケで思いついたアイデアに基づき、西部劇の撮影現場となったインディオの村を舞台とする物語である。映画など見たこともないインディオは、映画のなかでの殺人(の演技)を本当の出来事とみなし、インディオへの共感から撮影終了後も現地に残った白人の役者も交えて「儀式」として映画撮影の真似事を始めるが、その過程で役者が本当に殺されそうになる、といった「映画あるいは演技とは何か?」を問う刺激的な内容で、ホッパー自身、『イージー・ライダー』以上に意義のある作品で、より高い評価を獲得すると信じて疑わなかった。撮影終了後、ホッパーはニュー・メキシコ州タマホの自宅で1年4か月もかけて編集作業を行う。完成した『ラストムービー』(1971)は、ベネチア国際映画祭でグランプリに選ばれたものの、映画祭自体が中止になったため発表されなかった。複雑で難解な構造の映画だったため、映画会社が拒否反応を示し、きわめて限定された形での公開にとどまった。ふたたびハリウッドから監督失格の烙印(らくいん)を押されたホッパーは、より深刻にドラッグとアルコールに溺れはじめ、ようやく1984年になって病院での本格的治療を受ける。この時期までの重要な仕事としては、ドイツのビム・ベンダース監督の『アメリカの友人』(1977)やフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979)――この作品でホッパーは現実には望んでも果たせなかったベトナム戦争取材のカメラマンを演じる――での卓越した演技がある。ドラッグおよびアルコール中毒から癒えてからは、デビッド・リンチ監督の『ブルー・ベルベット』(1986)とデビッド・アンスポーDavid Anspaugh(1946― )監督の『勝利への旅立ち』(1987)で注目を浴び、この2本での演技に対して全米映画批評家協会およびロサンゼルス映画批評家協会の最優秀助演男優賞を与えられ、後者の演技ではアカデミー最優秀助演男優賞にもノミネートされた。さらに、彼を慕う若手実力派俳優ショーン・ペンの強力な後押しでロサンゼルスのギャング間の抗争を描く『カラーズ 天使の消えた街』(1988)の演出にあたる。映画の公開に際し、暴力を煽(あお)る内容だと一部から批判を浴びたが、映画は興行的にも好成績を残し、ハリウッドの「反逆児」ホッパーの真の意味での復活を印象づけた。

[北小路隆志]

資料 監督作品一覧

イージー・ライダー Easy Rider(1969)
ラストムービー The Last Movie(1971)
アウト・オブ・ブルー Out of the Blue(1980)
カラーズ 天使の消えた街 Colors(1988)
ハートに火をつけて Catchfire(1989)
ホット・スポット The Hot Spot(1990)
逃げる天使 Chasers(1994)

『エレナ・ロドリゲス著、綾部修訳『Dennis Hopper 狂気からの帰還』(1989・白夜書房)』『『銀星倶楽部13 デニス・ホッパー』(1989・ペヨトル工房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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