ペリー

精選版 日本国語大辞典 「ペリー」の意味・読み・例文・類語

ペリー

[一] (John Perry ジョン━) イギリスの工学者、数学教育者。ケルビンの助手となり、その推挙で明治八年(一八七五)来日、工部大学校の助教授として数学・土木学を教えた。方眼紙の紹介者としても知られる。同一二年帰国。実験・実例を重んじ、立体幾何を重視し、微分積分学を取り入れることなどを内容とする数学教育の改革運動を起こした。(一八五〇‐一九二〇
[二] (Matthew Calbraith Perry マシュー=カルブレイス━) アメリカの海軍提督。東インド艦隊司令長官として嘉永六年(一八五三)六月、浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出して開国を迫り、翌年再度来日、日米和親条約を結んだ。著書「日本遠征記」。(一七九四‐一八五八
[三] (Ralph Barton Perry ラルフ=バートン━) アメリカの哲学者。一九一二年共同論集「新実在論」を刊行、新実在論運動を起こした一人。主著「価値の一般理論」「ウィリアム=ジェームズの思想と性格」。(一八七六‐一九五七

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デジタル大辞泉 「ペリー」の意味・読み・例文・類語

ペリー(Matthew Calbraith Perry)

[1794~1858]米国の海軍軍人。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結した。著「日本遠征記」。ペルリ。

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百科事典マイペディア 「ペリー」の意味・わかりやすい解説

ペリー

米国の海軍軍人。日本開国の先駆者。米国の最初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長などを経て1852年東インド艦隊司令長官に就任。1853年軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航,フィルモア大統領の国書を提出して幕府に開国を迫った。一時退去したが1854年再び江戸湾にきて条約締結を要求,神奈川条約(日米和親条約)の締結に成功。帰国後,政府の委嘱で《ペルリ提督日本遠征記》を編集。ペリーは当時のマニフェスト・デスティニー(アメリカ膨張主義思想)の体現者で,日本に欧米的キリスト教文明を及ぼすことが米国の歴史的使命だと確信,来日前には周到に日本についての調査研究を行っていた。→ハリス
→関連項目浦賀江川太郎左衛門江戸切子オランダ風説書開国論神奈川久里浜黒船鎖国高島秋帆徳川家慶徳川斉昭フィルモア明治維新安井息軒吉田松陰

ペリー

英国の応用数学者。グラスゴー大学ケルビンの助手を務め,1875年―1882年来日し工部大学校で土木学を教えた。帰国後ロンドン王立理科大学教授。1901年から数学教育の改革を唱え,いわゆるペリー運動をおしすすめた。この運動は小倉金之助らにより紹介され日本の数学教育にも影響を与えた。

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改訂新版 世界大百科事典 「ペリー」の意味・わかりやすい解説

ペリー
Matthew Calbraith Perry
生没年:1794-1858

アメリカの海軍将官。日本開国の先駆者,最初の日米条約の締結者。ロード・アイランド州サウス・キングストンに海軍一家の三男として生まれる。1809年,海軍に入り,兄オリバーOliver Hazard Perry指揮下の砲艦勤務を振出しに,1812年英米戦争に参加,その後アフリカ,西インド諸島,地中海方面で海賊鎮圧などに従事。33-41年,海軍教育の改革に尽力,海軍の近代化を強力に唱え,1837年アメリカ最初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長になる(のち〈蒸気船海軍の父〉といわれる)。43年アフリカ艦隊司令官として奴隷貿易禁圧に従事。米墨戦争ではメキシコ湾艦隊副司令長官として指揮をとり,手柄をたてた。

 52年,東インド艦隊司令官(准将)に任命,大統領フィルモアから親書を託され日本遠征を命じられる。訓令では,日本人との条約交渉において〈断固とした決然たる態度〉が必要としつつも,なるべく〈平和的〉手段にとどめるよう制約を課していた。ペリー自身,時代の膨張思潮マニフェスト・デスティニーを体現し,日本を欧米キリスト教文明の恩恵に浴させることこそアメリカの歴史的使命だと確信していた。日本について周到な調査研究のうえ,旗艦ミシシッピ号ほか3隻を率いて琉球,小笠原諸島に寄港したのち,53年7月浦賀沖に投錨。幕府は江戸湾からの退去を要求したが,ペリーは峻拒,〈体面〉を重んじて最高位の日本役人との面会を強要,軍隊上陸を示唆して威嚇した。しかし結局,大統領親書を手交しただけでいったん退去した。翌54年2月再び江戸湾に来航,軍艦7隻の威を借りて交渉した結果,3月31日,神奈川条約が調印された。同条約では,下田・箱館の開港,薪炭の供給,遭難船員の保護,領事駐在の約束などを認めただけで,通商条項は含まれていない。遠征中ペリーは高度の戦略的観点から琉球の占有を具申して,本国政府に却下されたが,55年帰国後も太平洋支配をめざすイギリス,ロシアの勢力拡張や闘争について警告した。彼の膨大な《遠征記》(1856)には,日本の経済大国化や日米通商競争を予言するなど,日本人の特性への鋭い洞察が散見される。
開国
執筆者:

ペリー
Ralph Barton Perry
生没年:1876-1957

アメリカの哲学者。バーモント州のポールトニーに生まれ,プリンストン大学ハーバード大学で学び,1902年から46年までハーバード大学で教えた。アメリカ思想史の研究者でもあり,特にW.ジェームズ研究の権威で,《ウィリアム・ジェームズの思想と性格》2巻(1935。1936年度のピュリッツァー賞受賞)の著者としてもよく知られている。ペリーの哲学的立場はみずから〈新実在論〉と称しているもので,論理学,数学および自然諸科学において究明される実体は心的なものではなく,認識する精神とは独立に存在し,それらの実在性は認識のされ方にはまったく依存しないと説く。ペリーらの新実在論運動は伝統的観念論哲学を激しく攻撃し,さらにプラグマティズム運動とも批判的にかかわりながら,〈アメリカ哲学の黄金時代〉を飾った。

 なお,彼は倫理学および広く価値論一般に最も大きく貢献し,その分野で特に著名である。著書にはアメリカ思想史,W.ジェームズに関するもののほかに,《新実在論》(1912,ペリーを含む6人の新実在論者たちの共著),《価値の一般理論》(1926)などがある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「ペリー」の解説

ペリー

没年:1858.3.4(1858.3.4)
生年:1794.4.10
幕末のアメリカの海軍軍人。マサチューセッツ州ニューポートに海軍大佐の父クリストファーと母セーラの3男として生まれる。1809年1月海軍士官候補生の辞令を受け,13年7月海軍中尉,26年3月中佐を経て,37年2月,海軍の最高地位である大佐に昇進した。33年1月ニューヨークのブルックリン海軍工廠の造船場長,41年には同司令官になる。工廠在勤中,ミシシッピ号,ミズーリ号など蒸気船3隻の建造,灯台施設の改良,士官教育の振興に尽くし蒸気海軍の父としてたたえられた。43年4月アフリカ艦隊司令長官,46年5月メキシコ湾艦隊副司令官,47年3月同司令長官に就き軍功を現した。52年3月,東インド艦隊司令長官に就き,嘉永6年6月3日(1853年7月8日),対日交渉のために浦賀に来航,久里浜でアメリカ大統領フィルモアからの国書を手渡した。翌安政1(1854)年2月再び来日し,3月3日(3月31日)に日米和親条約を締結。57年12月退役した。<著作>『ペリー日本遠征日記』(金井圓訳)<参考文献>S.E.Morison《Old Bruin》

(内海孝)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペリー」の意味・わかりやすい解説

ペリー
Perry, Ralph Barton

[生]1876.7.3. バーモント,ポウルトニ
[没]1957.1.22. マサチューセッツ,ケンブリッジ
アメリカの実在論哲学者。ハーバード大学哲学教授。 1912年ほかの5名の若いアメリカ人哲学者とともに新実在論を唱え,外界は認識主体に依存しないことを主張。また価値の基礎を「興味」におき,これに基づいて善・悪の倫理を展開した。第1次世界大戦への従軍の経験をもとに戦闘的民主主義を唱えた。主著"The Present Conflict of Ideals" (1918) ,"Present Philosophical Tendencies" (25) ,"General Theory of Value" (26) ,"The Thought and Character of William James" (35) ,"Puritanism and Democracy" (44) ,"Realms of Value" (54) 。

ペリー
Perry, Matthew Calbraith

[生]1794.4.10. ロードアイランド,サウスキングストン
[没]1858.3.4. ニューヨーク
アメリカ海軍軍人。日米和親条約の締結使節。アフリカ沿岸の奴隷貿易取締り,アメリカ=メキシコ戦争などで活躍。 1852年東インド艦隊司令官となり,同年3月日本開港を目的とする遠征艦隊司令官に任命され,嘉永6年6月3日 (1853年7月8日) M.フィルモア大統領の将軍あて書簡をたずさえ,軍艦4隻で江戸湾に到着,威圧的に開港を迫り,翌年再び江戸へ来て日米和親条約を締結した。その結果箱館,下田が開港,日米通商が開始されて日本の鎖国時代は終った。著書『日本遠征記』 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan (3巻,1856~60) 。

ペリー
Perry, Bliss

[生]1860.11.25. マサチューセッツ,ウィリアムズタウン
[没]1954.2.13. ニューハンプシャー,エクセター
アメリカの批評家,編集者,小説家。ウィリアムズ・カレッジ卒業。母校 (1886~93) ,プリンストン大学 (93~1900) ,ハーバード大学 (07~30) で教鞭をとり,かたわら『アトランティック・マンスリー』誌の編集長 (1899~1909) をつとめた。主著『ホイットマン』 Whitman (06) ,『ホイッティア』 Whittier (07) ,『アメリカの精神』 The American Mind (12) ,『カーライル』 Carlyle (15) ,『文学におけるアメリカ魂』 The American Spirit in Literature (18) 。

ペリー
Perry, Oliver Hazard

[生]1785.8.23. ロードアイランド,サウスキングストン
[没]1819.8.23.
アメリカの海軍軍人。日本の開国を促した M.ペリーの兄。アメリカ=イギリス戦争 (1812) に際し,エリー湖のアメリカ艦隊を指揮。急造の艦隊で 1813年9月 10日ほぼ同数のイギリス艦隊を撃破し,アメリカ軍のカナダ侵入を助け,国民的英雄となった。さらにガン条約締結に際してのアメリカの北西部領有権主張の根拠をつくった。ベネズエラへおもむいた帰途,黄熱病で死去。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ペリー」の解説

ペリー
Matthew Calbraith Perry

1794.4.10~1858.3.4

アメリカの海軍軍人。米国初の蒸気軍艦を建造して「蒸気船海軍の父」とよばれる。1852年東インド艦隊司令長官となり,遣日特使として53年(嘉永6)6月,軍艦4隻を率いて浦賀に来航。蒸気艦の来航は鎖国体制に大きな衝撃を与えた。久里浜で修好通商を求めるフィルモア大統領親書を伝達し,再来を表明して退去。翌年1月,軍艦7隻を率いて再渡来,江戸湾深く航行して幕府に圧力をかけた。ペリーの要求により横浜応接所で開かれた日米会談では幕府の譲歩をかちとり,日米和親条約の締結に成功。帰途,那覇で琉球と修好条約を締結。帰国後「日本遠征記」を監修。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ペリー」の解説

ペリー Perry, Matthew Calbraith

1794-1858 アメリカの軍人。
1794年4月10日生まれ。海軍大佐。東インド艦隊司令長官となり,嘉永(かえい)6年(1853)浦賀沖に来航。日本に開国をもとめるフィルモア大統領の国書を幕府にわたし,翌年再来日して日米和親条約を締結した。帰途,琉球王国とも修好条約を調印。1858年3月4日死去。63歳。ロードアイランド州出身。著作に『ペリー提督日本遠征日記』。

ペリー Perry, John

1850-1920 イギリスの数学者,工学者。
1850年2月14日生まれ。明治8年(1875)来日し,工部大学校(現東大)の助教授となり,数学をおしえた。当時,日本で知られていなかった方眼紙を使用させた。12年帰国。1920年8月4日死去。70歳。アイルランド出身。クイーンズ-カレッジ卒。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ペリー」の解説

ペリー
Matthew Calbraith Perry

1794〜1858
アメリカの海軍軍人
東インド艦隊司令官として,1853(嘉永6)年4隻の軍艦を率いて浦賀に入港し,幕府に大統領フィルモアからの国書を提出して開国を要求。翌'54年,7隻で再度来日し,武力を背景に日米和親条約を締結。日本の開国を実現させた。

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飲み物がわかる辞典 「ペリー」の解説

ペリー【perry】


イギリス、フランスなどでつくられる洋梨を原料に用いた醸造酒。生食用ではなく、タンニンと酸が多いペリー醸造用品種の果汁を発酵させてつくる。発泡性があるものが多く、アルコール度数は4~8度程度。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ペリー」の解説

ペリー
Matthew Calbraith Perry

1794〜1858
アメリカの海軍軍人
アメリカ大統領フィルモアの親書をたずさえ,東インド艦隊を率いて1853年6月浦賀に来航。強引に日本の開国をせまり,翌年日米和親条約の締結に成功した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペリー」の解説

ペリー
Matthew Calbraith Perry

1794~1858

アメリカの海軍軍人。アメリカ東インド艦隊を率い,外交任務を与えられて,1853年浦賀に来航,日本に開国を迫り,翌年再び来航して横浜で日米和親条約を結んだ。

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367日誕生日大事典 「ペリー」の解説

ペリー

生年月日:1850年2月14日
イギリスの数学者
1920年没

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世界大百科事典(旧版)内のペリーの言及

【小笠原諸島】より

… 対外的危機を訴えた林子平や渡辺崋山,高野長英らにより,蝦夷地とともに開拓することが説かれたが,1823年(文政6)アメリカの船員が母島に上陸し,27年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言した。次いで30年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつれて移住し,53年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーをアメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行った。このため米英間に諸島の帰属問題をめぐって紛議が生じたが,幕府は62年(文久2)ようやく外国奉行らを派遣して日本領たることを宣言し,八丈島民30余人を移住させて開拓に当たらせようとした。…

【開国】より

…対外的に鎖国をつづけていた封建日本が,欧米の先進資本主義列強に近代的な国交・通商関係を強いられ,不平等条約の締結を起点として資本主義的世界市場と近代国際政治のなかに従属的に包摂されたこと。
[条約の締結]
 日本の開国は,1853年7月(嘉永6年6月),浦賀に来航したペリー提督が率いる蒸気艦隊に威圧された幕府がまずアメリカ大統領国書を受領し,翌年(安政1)3月,再度来航したペリーとのあいだに日米和親条約(神奈川条約)を締結したのを発端とする。以来,幕府は,イギリス,ロシア,オランダとも和親条約を結び,外国船の寄港と補給のために下田,箱館,長崎などを開港したが,なお自由な通商貿易を認めてはいなかった。…

【琉球】より

…それに,1816年のイギリス艦隊の来航を皮切りにイギリス,フランス,オランダ,アメリカ,ロシアなど異国船の来航が相次ぐようになり,内憂にさらに外患が加わった。1853‐54年にアメリカ艦隊を率いて4度も琉球に来航したペリー提督は,武力を背景に開国,通商を迫った。これに対して琉球は言を左右して抵抗したが,ついにアメリカとの間に琉米修好条約(1854)の締結を余儀なくされた。…

※「ペリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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