ベートマン・ホルウェーク
べーとまんほるうぇーく
Theobald von Bethmann Hollweg
(1856―1921)
ドイツの政治家。プロイセン官界で昇進、内相を経て、1907年、第二帝国内相、首相代理を務め、1909年、ビューローの後を継いで第5代の帝国首相に就任した。ドイツの国際的孤立と国内の左右政治勢力の対立激化のなかで、有能な行政家ではあったが、政治指導力に欠けたため、イギリスとの和解やプロイセン選挙法改革に失敗。1914年の7月危機では、オーストリア側に強硬姿勢を説いて、第一次世界大戦の一因をつくった。大戦前半期、諸政治勢力の均衡を図る「対角線政策」をとったが、戦争が長期化するにつれ軍部の圧力に押され、また選挙法改正による国内の政治統合にも成功せず、1917年7月、軍部・議会の攻撃を受け、失脚した。大戦勃発(ぼっぱつ)直後に彼の作成した戦争目的・構想(九月綱領)は、ドイツの侵略的意図を示すものとして、1960年代の大戦原因論をめぐる国際的な歴史学界の論争の中心的史料の一つとなったことで知られる。
[木村靖二]
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ベートマン・ホルウェーク
Bethmann Hollweg, Theobald von
[生]1856.11.29. ホーエンフィノー
[没]1921.1.1. ホーエンフィノー
ドイツの政治家。 M.ベートマン・ホルウェークの孫。 1886年内務省に入り,1907年内相,09年7月 B.ビューローの跡を継いでドイツ帝国宰相。ウィルヘルム2世の世界政策に反対し,イギリスとの関係改善に努力して緊張の緩和をはかったが,A.ティルピッツによる海軍拡張を押えきれず失敗。内政面では選挙法の改正に努力し,アルザス=ロレーヌに自治権を与え,さらに財政改革を推し進めた。しかし軍部の意向を押えきれずに提出した軍備拡張予算のための増税案は強い反発を呼び,議会においても孤立した。開戦回避の努力もむなしく第1次世界大戦が始ると早期講和を求めたが,軍部や保守派を中心とする強硬派を押えきれず,無制限潜水艦戦の阻止にも失敗。戦争の進展とともに国内に民主勢力が台頭し,軍部,議会双方の攻撃を受けて 17年7月辞任。主著『世界大戦に関する考察』 Betrachtungen zum Weltkriege (2巻,1919~22) 。
ベートマン・ホルウェーク
Bethmann Hollweg, Moritz August von
[生]1795.4.8. フランクフルトアムマイン
[没]1877.7.14. アンデルナハ近郊ライネック城
ドイツの法律家,政治家。ゲッティンゲン,ベルリンで法学を学び,とりわけ F.サビニーの歴史法学に影響を受け,1820年ベルリン大学教授,29年ボン大学教授。ライン地方の大土地所有者として,49年以来プロシア議会の保守派に属したが,『十字新聞』に代表される反動勢力には反対,58~62年のいわゆる「新時代」には文化相をつとめた。ドイツ福音主義諸教会の合同のためにも尽力。ビスマルクの登場以後は政治から遠ざかり,歴史法学の立場から『歴史的発展過程における一般法としての民事訴訟法』 Der Zivilprozess des gemeinen Rechts in geschichtlicher Entwicklung (6巻,1864~74) を著わした。
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ベートマン・ホルウェーク
ドイツ帝国の政治家。1909年首相となり,内政改革や英・露両国との和解の必要を認めながら不徹底に終わり,内外の対立激化を招いた。第1次大戦開戦後は軍部の国内支配に抵抗,内政改革と早期和平の実現を図ったが1917年失脚。
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