ベルリン大学
べるりんだいがく
Friedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin
ドイツ連邦共和国の代表的な大学。19世紀の初頭プロイセンの首都ベルリンに創設され、一躍ドイツを代表する大学となると同時に、近代大学のモデルとして、全世界に大きな影響を与えた。1806年イエナの戦いに敗れたプロイセンは教育改革に着手し、1809年国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世はベルリン大学設立の勅令を発布。大学設立の任は、時の宗務・公教育長官W・v・フンボルトにゆだねられた。フンボルトはフィヒテ、シュライエルマハーらの大学論、学問論を継承発展させ、政治権力に制約されることのない「教授の自由」Lehrfreiheitと「学習の自由」Lernfreiheitを大学設立の理念とした。また諸科学の有機的統一という立場から哲学部を重視し、これを伝統的な神、法、医の各学部と対等に位置づけた。1810年開学した大学には初代学長シュマルツ(法学者)Theodor Anton Heinrich Shmalz(1760―1831)のもとに、シュライエルマハー(神学)、ビーナー(法学)Friedrich August B. Biener(1787―1861)、フーフェラント(医学)、フィヒテ(哲学)など世界的学者が学部長に就任し、大学の名声は全ドイツに広がった。さらにこうした「学問の自由」Akademische Freiheit理念を中核とするドイツ大学モデルは、19~20世紀にかけて他のヨーロッパ諸国やアメリカ、日本などの大学にも大きな影響を及ぼした。
[馬越 徹]
第二次世界大戦中、ベルリン大学の建物の大半は破壊された。戦後は東ベルリンに位置していたためドイツ民主共和国の大学となり、1949年創設者の名をとってフンボルト大学Humboldt-Universität zu Berlinと改称された。再開された大学は社会主義的知識人の養成機関となり、労働者、農民に門戸を開放した。9学部(哲学、法学、神学、経済学、教育学、数学・自然科学、農学・園芸学、獣医学、医学)構成をとってきたが、1968年の大学改革により部門制Sektionに再編成された。1989年の「ベルリンの壁」崩壊により東西ドイツの統一が実現し、ドイツ連邦共和国の大学となる。1995年現在、教員数約4000人、学生数約2万人。
[馬越 徹]
西ベルリンには1948年アメリカなど西側占領軍の支援のもとにベルリン自由大学Freie Universität Berlinが設立され、「自由な学問」を旗印に旧ベルリン大学の教授、学生が移った。現在ではドイツ連邦共和国有数の大学に発展。東欧研究所、北アメリカ研究所、ラテンアメリカ研究所、社会科学研究所などが付設されている。1995年現在、教員数約4000人、学生数5万8000人。
[馬越 徹]
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「ベルリン大学」の意味・わかりやすい解説
ベルリン大学【ベルリンだいがく】
近世大学の典型となったドイツの代表的総合大学。1809年プロイセンの首都ベルリンに国王の命を受けてW.vonフンボルトらが創設。初代学長はフィヒテ。その〈教授と研究の自由〉の理念は世界の諸大学にも影響を与えた。第2次大戦後,東ドイツの大学となり,フンボルト大学と改称。1995年現在,14学部。これに対し西ドイツは1948年西ベルリンにベルリン自由大学を新設,当初は学部制だったが,1995年現在22部門で構成。現在は2つの大学が並立している。
→関連項目ベルリン|レヴィン
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ベルリン‐だいがく【ベルリン大学】
ベルリンにある国立大学。一八一〇年
開校。国王ウィルヘルム三世の勅令により
シュライエルマッハーの大学論に基づきフンボルトが
立案、創設。初代学長はフィヒテ。教授と研究の自由、哲学による諸科学の有機的統一、教授会を中心とした大学自治制度を実現、近代の大学の
模範となった。第二次世界大戦後、東ベルリン地区に位置したためにドイツ民主共和国のもとでフンボルト大学と改称。多数の教授・学生が西ベルリンに移り、一九四八年ベルリン自由大学を開設した。
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デジタル大辞泉
「ベルリン大学」の意味・読み・例文・類語
ベルリン‐だいがく【ベルリン大学】
ベルリンにある国立大学。1809年プロイセン国王フリードリヒ=ウィルヘルム3世の勅令により、フンボルトらが設立。初代学長はフィヒテ。大学の自治制度を実現し、近代の大学のモデルとされた。第二次大戦後、ドイツ民主共和国(東ドイツ)政府の管理下にフンボルト大学と改称。一方、多くの教授や学生が西ベルリンに移り、1948年ベルリン自由大学を開校。1990年の東西ドイツ統一後も両校とも別個に存続している。
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ベルリン大学
ベルリンだいがく
1810年,フンボルトらによって設立された大学
プロイセンのシュタイン−ハルデンベルクの改革の一環として開校。哲学を中核とする学問の統合をめざし,やがてその名声は広く世界に認められた。初代総長フィヒテ。第二次世界大戦後は,東ドイツの治下にフンボルト大学として再出発し,西ベルリン地区にはベルリン自由大学が設立された。
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ベルリンだいがく【ベルリン大学】
プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の治下,フィヒテ,シェリング,K.W.vonフンボルト,シュテフェンスらの提言に基づき,1810年にベルリンに創設された大学。正称はフリードリヒ・ウィルヘルム大学Friedrich‐Wilhelms‐Universitätだったが,第2次大戦後東ドイツの管轄下におかれ,フンボルト大学Humboldt‐Universitätと改称された。初代学長はフィヒテであった。
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世界大百科事典内のベルリン大学の言及
【大学】より
…18世紀後半になるとこの傾向はフランス,ドイツの大学で決定的になった。こうして生まれた近代大学の一つの典型が,19世紀初めのドイツのベルリン大学である。それは神学部を頂点にすえていた学部構成を改めて,それまで〈神学の僕(しもべ)〉とみられていた哲学を大学の中心に置き(哲学部の優位),これに法学,医学などの諸学部を配するものであった。…
【プロイセン】より
…この経済的自由主義が,ドイツ連邦内でのプロイセンのヘゲモニーへの志向と結びつくところに,1834年のドイツ関税同盟が生まれたのである。 この時期のドイツにはロマン主義の高揚が見られたが,ベルリンは18~19世紀のかわり目以来ロマン主義文学の一中心をなし,ケーニヒスベルク大学のカントに始まるドイツ観念論哲学も,ベルリン大学(1810創立)の講壇から,フィヒテ,ヘーゲルらによって市民層の間にひろめられた。さらに同大学は,ランケの活動を通じてドイツ歴史学の発展に指導的な役割を果たすこととなる。…
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