プーシキン(英語表記)Aleksandr Sergeevich Pushkin

精選版 日本国語大辞典 「プーシキン」の意味・読み・例文・類語

プーシキン

(Aljeksandr Sjergjejevič Puškin アレクサンドル=セルゲービチ━) ロシアの詩人、小説家。ロシア近代文学の祖とされる。農奴制下のロシアの現実を描き、ロシア‐リアリズムの伝統を築いた。代表作「エフゲニー=オネーギン」「大尉の娘」など。(一七九九‐一八三七

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デジタル大辞泉 「プーシキン」の意味・読み・例文・類語

プーシキン(Aleksandr Sergeevich Pushkin)

[1799~1837]ロシアの詩人・小説家。ロシアにおける国民文学および近代文章語の確立者。妻をめぐってフランス人将校と決闘し、死亡。叙事詩「ルスランとリュドミーラ」、韻文小説「エウゲニー=オネーギン」、散文小説「スペードの女王」「大尉の娘」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「プーシキン」の意味・わかりやすい解説

プーシキン
Aleksandr Sergeevich Pushkin
生没年:1799-1837

ロシアの詩人。父方の先祖は由緒ある貴族で,父はディレッタントながら詩をよくし,伯父のワシーリーはカラムジン派の詩人であった。母方の曾祖父ガンニバル将軍Abram Petrovich Gannibal(1697ころ-1781)はエチオピア出身で,ピョートル1世の寵愛を受けた。このアフリカの血はプーシキンの気質や相貌に明らかに現れている。1811年,ツァールスコエ・セロー(現,プーシキン)に開校された貴族の子弟のためのリツェイ(学習院)に1期生として入学,詩作で頭角を現し,在学中に約150編の詩を書いた(初めはフランス語による詩作が多かった)。進級公開試験に際し朗読した詩《ツァールスコエ・セローの思い出》(1815)で列席していた詩壇の長老デルジャービンの祝福を受け,リツェイ外にもプーシキンの名は知られるようになった。在学中にジュコーフスキー,バーチュシコフら先輩詩人たちに仲間として遇され,チャアダーエフをはじめとする進歩派の青年貴族たちとも親交を結んだ。卒業後外務省に勤務,20年におとぎ話風の物語詩《ルスラーンとリュドミーラ》を発表,若い世代の熱狂的な支持を得たが,デカブリストたちに共感し,頌詩《自由》(1817),農奴制を批判した《村》(1818)などのすぐれた政治詩を書いたため,南ロシアへ送られた。

 南方での生活(1820-24)はちょうどバイロンを読んでいたプーシキンに,《カフカスの捕虜》(1821)に始まるロマンティックな物語詩の素材を提供してくれた。1824年,無神論を肯定した手紙が押収され,要注意人物として官職を解かれ,プスコフ県ミハイロフスコエ村の領地で謹慎を命ぜられた。田園での孤独な生活,北方ロシアのひそやかな自然,乳母アリーナの語ってくれるロシア・フォークロアの世界とのふれあいがプーシキンをロシアの国民詩人へと成熟させた。バイロンに代わってシェークスピアが彼の心をひきつけた。シェークスピア研究はまず史劇《ボリス・ゴドゥノフ》(1825,刊行1831)に結実した。追放処分を受けていたため,25年のデカブリスト蜂起への連座を免れたが,皇帝ニコライ1世の〈温情〉によって自由の身とされた後も,終生秘密警察の厳しい監視と検閲のもとに置かれた。

 絶世の美少女とうたわれたナターリアに恋し,31年結婚したが,その前年,結婚祝に父から贈られたニジェゴロド県ボルジノ村を検分に訪れた際,コレラ禍で足止めされ,いわゆる〈ボルジノの秋〉として知られる記念すべき時を過ごした。彼の創作の頂点をなす約50編の作品がこの時に書かれた。短編小説集《ベールキン物語》,4編の〈小悲劇〉のほか,1823年に書き始められていた韻文小説《エフゲーニー・オネーギン》の基本的部分が完成したのもこの時である。しかしナターリアとの結婚は悲劇の始まりであった。軽佻浮薄で知的関心のない妻は,社交界の花形で,彼女を舞踏会の花としようと欲した皇帝がペテルブルグに彼女を引きとめるためにその夫を年少侍従(カーメル・ユンケル)に任命した。〈年少の〉小貴族に与えられる名誉は詩人にとって屈辱であった。世俗権力との衝突の中でプーシキンは歴史的な視野を拡大していき,ピョートルの功業をほめたたえつつ,その犠牲になったペテルブルグの小市民の悲劇を描いた叙事詩《青銅の騎士》(1833),ゴーゴリやドストエフスキーの〈ペテルブルグ物〉の先駆けといえる小説《スペードの女王》(1834),レールモントフの《現代の英雄》やトルストイの《戦争と平和》の原型ともなった歴史小説《大尉の娘》(1836)を書いた。妻とフランス士官G.ダンテスとのスキャンダルにまきこまれたプーシキンは,37年1月27日ダンテスとの決闘で致命傷を負い,2日後に37歳の生涯を閉じた。

 プーシキンの主要な功績は,近代文章語の確立と新しい国民文学の創造の2点である。ツルゲーネフはプーシキンの創作活動について,〈ほかの国においては1世紀あるいはそれ以上も隔てられていた二つの仕事(文章語と国民文学の創造)が,彼ひとりによって成しとげられた〉と語っている。プーシキンの文学を特徴づけるのは,人間の自由と尊厳をうたい上げる情熱であり,彼の作品の魅力は,音と意味の完璧な結びつき,叙述の自然さ,明晰,簡明に存するが,これはメリメが嘆いているように翻訳をとおすと大半が失われてしまう。にもかかわらず彼の明るい調和的な文学世界は日本の読者を引きつけ,1883年の抄訳《大尉の娘》(《露国奇聞 花心蝶思録》)以降,中山省三郎,神西清らのすぐれた翻訳によって広く読まれている。
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プーシキン
Pushkin

ロシア連邦,ヨーロッパ・ロシア北西部,レニングラード州の都市。サンクト・ペテルブルグの南24km。人口9万4900(1993)。1728年から1918年までツァールスコエ・セローTsarskoe Selo,37年までジェツコエ・セローDetskoe Seloと称された。プーシキン死後100年を記念して現在の名称となった。ジェツコエ・セロー時代には,子どもたちのためのサナトリウムが設けられていた。スウェーデンの古い記録にはサアリス・モイシオ(島,農場)とあり,それがロシア化され,サールスカヤ・ムイザ(ムイザは農園付き別荘の意),サールスコエ・セローとなったが,ピョートル1世の皇后(ツァリーツァ)に所領として与えられた後,ツァールスコエ・セローと呼ばれるようになった。女帝エリザベータ・ペトロブナ(在位1741-61),エカチェリナ2世(在位1762-96)時代に主要な宮殿,庭園が造られ,19世紀になるとペテルブルグの貴族,上流階級の避暑地として発展した。1811年,貴族の子弟のための教育機関リツェイ(学習院)がこの地に設立され,プーシキンが11-17年ここに学んだ。1917年春,革命軍に捕らえられた皇帝ニコライ2世はここのアレクサンドロフ宮殿に監禁されていた。19年10月白衛軍に一時占拠された。41年9月から44年1月までこの町を占領したドイツ軍は,クアレンギやラストレリによって建築された美しい宮殿を徹底的に破壊した。第2次大戦後,再建,修復に多大の努力が注がれ,現在では少なくとも外観上は革命前の姿に復元されている。
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百科事典マイペディア 「プーシキン」の意味・わかりやすい解説

プーシキン

ロシアの詩人。近代ロシア文学最大の国民詩人であり,また文章語の確立者でもある。モスクワの貴族の家に生まれ(なお母方の曾祖父はエチオピア人),ペテルブルグ近郊ツァールスコエ・セローの学院に学ぶ。在学中から詩才を現し,青年時代は《自由》《チャダーエフに》などの詩で革命への希求をうたう。そのため南ロシアへ追放,デカブリストの蜂起以後は皇帝の直接の監視下に置かれた。妻をめぐる醜聞にまきこまれ,決闘に倒れたが,その経緯には謎が多く,皇帝側の陰謀がからんでいるとも言われる。ロシア人に愛される美しい抒情詩のほかに,《ルスラーンとリュドミーラ》(1820年)はじめ,多くの叙事詩,散文作品がある。代表作は,《エフゲーニー・オネーギン》,《青銅の騎士》(1833年),劇詩《ボリス・ゴドゥノフ》(1825年),散文作品《ベールキン物語》(1830年),《スペードの女王》(1834年),《大尉の娘》(1836年)など。古典主義から,ロマン主義,そしてリアリズムへと移行していく時期のロシア文学の発展を一身に体現した存在である。
→関連項目グリンカコリツォーフダルゴムイシスキーチャイコフスキーバラトゥインスキーベリンスキーボリス・ゴドゥノフメリメリュビーモフレールモントフ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プーシキン」の意味・わかりやすい解説

プーシキン
Pushkin, Aleksandr Sergeevich

[生]1799.6.6. モスクワ
[没]1837.2.10. ペテルブルグ
ロシアの詩人。ロシアのリアリズム文学の確立者。由緒ある貴族の家庭に生まれ,リツェイ (貴族子弟のための学校) の学生時代からその才能を文壇に認められ,卒業後外務省に勤務するかたわら『自由』 Vol'nost' (1817) などの詩によって革命の必要性を表明,そのためにコーカサスへ追放された。『コーカサスのとりこ』 Kavkazskii plennik (1820~21) ほかの叙事詩で,虚偽と不正に満ちた封建的現実への抗議と自由への強い主張をし,37歳で決闘に倒れるまで,国民性,思想性,現実性に貫かれた文学を創造し続けた。代表作『エブゲーニー・オネーギン』『大尉の娘』『スペードの女王』,短編集『ベールキン物語』。

プーシキン
Pushkin

ロシア北西部,レニングラード州の都市。1918年までツァールスコエセロ Tsarskoe Selo,1918~37年はデツコエセロ Detskoe Selo。サンクトペテルブルグの南郊の都市で,18世紀初頭に建設されたロシア皇帝の夏の宮殿を中心に発展した。1837年サンクトペテルブルグとの間にロシア最初の鉄道が開通。イギリス庭園やエカテリーナ宮殿など 18~19世紀の宮廷建築でよく知られている。第2次世界大戦でドイツ軍に占領され,大きな被害を受けたが,大部分復旧した。サンクトペテルブルグ農業研究所がある。現市名は市のリツェイ (貴族子弟のための学校) で学んだ詩人アレクサンドル・セルゲービッチ・プーシキンを記念したもの。人口 8万4628 (2002) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「プーシキン」の解説

プーシキン
Aleksandr Sergeevich Pushkin

1799~1837

ロシアの詩人,国民文学の創始者。デカブリストと同じ世代に属し,国民に記憶される多くの詩や韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』のほか,小説では『スペードの女王』『大尉の娘』などを書いた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「プーシキン」の解説

プーシキン
Aleksandr Sergeevich Pushkin

1799〜1837
ロシアの詩人・小説家
ロマン主義をへてリアリズム文学の基礎を築き,ロシア近代文学の創始者と呼ばれる。代表作『オネーギン』『大尉の娘』など。

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世界大百科事典(旧版)内のプーシキンの言及

【エフゲーニー・オネーギン】より

…ロシアの国民詩人プーシキンの,8章から成る韻文小説。1825‐32年刊。…

【児童文学】より

…ユダヤ人のカニグズバーグE.L.Konigsburg,I.B.シンガー,黒人のハミルトンH.Hamiltonがすぐれ,ほかにフォックスP.Fox,ボイチェホフスカM.Wojciechowskaらが問題作を書いている。
[旧ソ連邦]
 かつてロシアでは,A.S.プーシキンが民話に取材して《金のニワトリ》(1834)などを書き,エルショフP.P.Ershovが《せむしの小馬》(1834)を作り,I.A.クルイロフはイソップ風の寓話を,V.M.ガルシンは童話的な寓話を書いたが,いずれも権力に刃向かう声であった。F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。…

【ビャーゼムスキー】より

…ロシアにおけるロマン主義の最も代表的な宣伝普及者の一人。プーシキンの親友で,彼にバイロンの意義を説いた。初期の詩は古典主義的・知性的要素を多くとどめているが,1820年代後半にはロマン主義的モティーフをうたったすぐれた抒情詩(《滝》(1825),《波立ち》(1829)など)を数多く書いた。…

【翻訳】より

…もちろん,熟達した翻訳者においては,これは母国語の場合のように行われてしまうのであるが。しかし,翻訳は了解ばかりでなく,翻訳言語による〈再表現化〉(ロシア文学の父,A.S.プーシキンがすでにこの概念を用いている)の作業をともなっている。すなわち,翻訳者は原語テキストの読者であると同時に,翻訳テキストの受容者たちにとって原作者の代理,あるいは新しい作者として登場することになるから,先に挙げたコミュニケーション図式は翻訳者を接点にして,原作者→原語テキスト読者/翻訳者→翻訳テキストの読者,というように二重化されるのである。…

【ロシア語】より

…ただし,前時代に比べて多くの新しい特徴を示すこの時期の書き物のことばを,新ロシア語New Russianと呼ぶ。 A.S.プーシキン(1799‐1837)は韻文と散文の両方の作品で新しい言文一致の模範を示し,まもなくそれがすべての人の受け入れるところとなって,ついにロシア語の全国民的な諸規範が確立した。広義の現代ロシア標準語Modern Literary Russianはプーシキン以後現代までのロシア語を指すが,より厳密には,1930年代後半からの約50年間に定まった書きことばと話しことばの諸規範を意味する。…

【ロマン主義】より

… その他の国々では,ロマン主義は多くの場合国家統一へと向かうナショナリズムの進展と並行し,国民的な意識の高揚を目ざす国民文学運動として展開された。例えば,イタリアではリソルジメントと呼応しマンゾーニやレオパルディが文学運動を推進し,あるいはロシアではプーシキンやレールモントフらが,フランス文学の影響を排してロシア固有の文学の創造を目ざす国民文学運動としてのロマン主義を展開した。 この汎ヨーロッパ的な文芸運動も19世紀中ごろにはほぼ終わり,リアリズム等の旗印のもとに各国の社会状況に即した文芸思潮が登場した。…

※「プーシキン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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