プロパガンダ運動(読み)プロパガンダうんどう(英語表記)Propaganda Movement

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プロパガンダ運動」の意味・わかりやすい解説

プロパガンダ運動
プロパガンダうんどう
Propaganda Movement

フィリピンにおいて,スペイン支配に抗議して 1882~95年にかけて展開された言論活動 (→宣伝 ) 。フィリピンではマルセロ・デル・ピラールが発刊した日刊紙『タガログ毎日』が最初にキャンペーンを開始したが,運動の中心はスペイン在住のフィリピン留学生の活動であった。特にホセ・リサールが出版した長編小説ノリ・メ・タンヘレ』 (原題『我に触るな』 Noli me tangere,1886) はスペイン社会に大きな衝撃を与えた。改良主義的で,方針が不徹底であったにもかかわらず,この運動はフィリピン革命の素地をつくった。

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世界大百科事典(旧版)内のプロパガンダ運動の言及

【カティプーナン】より

…正式名称は〈人民の息子らの最も気高く,最も尊敬すべき結社〉である。フィリピンでは19世紀中ごろからスペインの植民地支配に対する改革運動が起こり,1880年代にはリサールデル・ピラールに指導された〈プロパガンダ運動〉が展開された。しかし,それらの穏健な改革運動ではスペインの圧政を正すことができなかったので,92年7月7日,武力革命をめざすカティプーナンがマニラの下町トンドで結成された。…

【デル・ピラール】より

…1880年に当時の最高学府サント・トマス大学を卒業すると,マニラおよびブラカン州一帯の知識人,プリンシパリーアをひそかに組織して植民地改革運動を開始した。ちょうどこの頃,植民本国スペインでもフィリピン人留学生らが植民地改革を要求する言論活動を開始したので,これ以後1895年ころまでをフィリピン史ではプロパガンダ運動(啓蒙宣伝活動)の時代と呼んでいる。88年にデル・ピラールは国外追放処分を受けそうになり,スペインへ脱出,この地ですでに開始されていたフィリピン改革運動を再組織した。…

【フィリピン】より

…しかし,それらの抵抗運動の中で,人種差別の不当性を初めて明確に主張したのは,1840年代末に始まるフィリピン人神父の権利擁護運動であった。この運動は72年のゴンブルサ事件で大弾圧をうけて潰滅したが,この事件の衝撃で目ざめた民族意識は,やがて1880年代にプロパガンダ運動と呼ばれる改革運動を生み出した。プロパガンダ運動の担い手は,マニラの中等教育機関(コレヒオや師範学校など)やサント・トマス大学,さらには遠くヨーロッパ諸国へ遊学ないしは留学した,新興有産階級の子弟であった。…

【ボニファシオ】より

…しかし明敏だったので,やがてイギリス商会ついでドイツ商会の職員になり,仕事のかたわら独学でスペイン語をマスターして,当時マニラに流入したヨーロッパ文学や自由主義思想,フランス革命に関する文献などに接する機会を得た。1880年代に入ってスペイン支配の改革を求めるプロパガンダ運動が始まると,率先してこれに参加したが,知識人中心の言論活動の不毛さに失望して,92年7月同志とともに武装革命をめざす秘密結社カティプーナンを結成,95年にその第3代総裁となり,96年8月フィリピン革命を開始した。しかし闘争の過程でアギナルドの率いるカビテ州のプリンシパリーア階層との間に指導権争いを生じ,これに敗れて,97年5月10日アギナルド革命政府の手で処刑された。…

【リサール】より

…ルソン島南部のラグナ州カランバ町の教養ある大借地農の家庭に生まれ,マニラのアテネオ・デ・マニラ学院,サント・トマス大学で学んだ後,1882年スペインのマドリード中央大学に留学して医学と古典文学を学んだ。留学前から民族意識に目覚めていたホセは,フィリピンに比して自由主義的な植民地本国の空気の中でその自覚を強め,同胞の留学生らに呼びかけてフィリピン統治改革を求める言論活動(プロパガンダ運動)を開始した。87年出版の最初の小説《われに触れるな》はスペイン当局に強い衝撃を与え,彼らの運動を一躍有名にした。…

※「プロパガンダ運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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