プロコフィエフ(Sergey Sergeevich Prokof'ev)(読み)ぷろこふぃえふ(英語表記)Сергей Сергеевич Прокофьев/Sergey Sergeevich Prokof'ev

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

プロコフィエフ(Sergey Sergeevich Prokof'ev)
ぷろこふぃえふ
Сергей Сергеевич Прокофьев/Sergey Sergeevich Prokof'ev
(1891―1953)

ロシアの作曲家。4月23日、ウクライナのエカテリノスラフ県ソンツォフスカ村の裕福で教養高い家庭に生まれる。母の影響で早くから音楽に親しみ、11歳のころには二つのオペラを書き上げるまでになった。革命前夜の不穏な状況のもとで1904~14年ペテルブルグ音楽院に学び、リャードフ、リムスキー・コルサコフらに作曲・理論、エシポワにピアノ、N・チェレプニンに指揮を師事するかたわら、アサフィエフミャスコフスキー親交を結んだ。また「現代音楽の夕べ」のグループに加わり、当時の国内外の前衛作品から大きな影響を受けて、ピアノ協奏曲第一番(1911~12)、同第二番(1912~13)ほか多数を作曲、08年には自作を演奏してピアニストとしてもデビューした。ディアギレフに依頼されたバレエ『アラとロリー』(1914~15。のちに『スキタイ組曲』に改編)や『古典交響曲』(1916~17)を発表したのち、18年、革命に揺れる祖国を離れ、日本経由でアメリカに亡命した。

 滞米時代にはピアノ協奏曲第三番(1917~21)、オペラ『三つのオレンジへの恋』(1919)など大作を手がけたが、卓越した演奏家としては評価されながらも作品の大胆な語法が理解されず、1922年ヨーロッパに戻った。パリを拠点に各地で演奏活動を行うかたわら創作を続け、33年再三にわたる当時のソ連当局の要請を受け入れて祖国に復帰。社会主義リアリズムの路線に沿ってバレエ『ロミオとジュリエット』(1935~36)、子供のための交響的物語『ピーターと狼(おおかみ)』(1936)、映画音楽『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)、交響曲第五番(1944)などの名作を書き上げた。第二次世界大戦後オペラ『戦争と平和』(1941~43、改訂1946~52)をはじめ一連の作品がジダーノフ批判の対象となり、その非難を受け入れてさらに諸作を発表。53年3月5日、スターリンの死と同じ日に、あらゆる分野に多数の作品を残してモスクワに没した。

 作風は、不協和音を多用した激しく辛辣(しんらつ)な書法から、しだいに新古典主義的な様式に変化、ソ連復帰後には平易で叙情的な表現が優勢を占めている。

[益山典子]

『園部四郎・西牟田久雄訳『プロコフィエフ自伝・評論』(1964・音楽之友社)』『井上頼豊著『プロコフィエフ』(1968・音楽之友社)』『M・R・ホフマン著、清水正和訳『プロコフィエフ』(1971・音楽之友社)』

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