プトレマイオス王国(読み)プトレマイオスおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「プトレマイオス王国」の意味・わかりやすい解説

プトレマイオス王国 (プトレマイオスおうこく)

アレクサンドロス大王の友人プトレマイオスPtolemaios(プトレマイオス1世ソテル)が,大王の死(前323)後エジプトサトラップ(総督)として赴任し,後継者(ディアドコイ)争いに勝利をおさめて開いた王国。前305か304-前30年。その王朝をプトレマイオス朝,あるいは開祖プトレマイオスの父ラゴスLagosの名をとってラゴス朝ともいう。

開祖プトレマイオス1世はパレスティナ,キプロス,小アジアにまで領土を拡大し,国内では行政組織を整えて国家の基礎を築き上げた。さらにプトレマイオス2世フィラデルフォスは,2次にわたるシリアとの戦いに勝利して近東方面に領土を拡大,また国内の財政制度を整備し,アレクサンドリア港の増築,ムセイオンの拡充,ナイル川と紅海とを結ぶ運河の開削などを行って父王の仕事を発展させた。しかしプトレマイオス5世エピファネスの時代にマケドニア,セレウコス朝シリア(シリア王国)と戦って敗れ,エーゲ海沿岸,小アジア,パレスティナ地方の領土を失った。また支配者であるマケドニア人に対して土着のエジプト人の反乱も起こった(前184か183)。

 続くプトレマイオス6世フィロメトルは,妻や兄弟との共同統治を経て単独の支配者となるが,兄弟(のちのプトレマイオス8世エウエルゲテス)との対立抗争が続いた。その死後,息子がプトレマイオス7世ネオス・フィロパトルとして即位するが,すぐに叔父プトレマイオス8世に殺される。この8世はキュレネを治めてのちエジプトに帰り,単独支配者となった。プトレマイオス9世ソテル,プトレマイオス10世アレクサンドロスも兄弟で王位継承の争いを演じたことで知られている。プトレマイオス11世アレクサンドロスは,スラの支持によって王位に就いたがほどなく暗殺された。続くプトレマイオス12世は一時期追放の憂き目に遭った以外は長期にわたって王位にあった。プトレマイオス13世は姉クレオパトラ7世とともに共同統治者として国を治めたが,のち二人は王位をめぐって争いを起こし,一時姉を追放したが,おりからポンペイウス討伐のためアレクサンドリアに来ていたカエサル介入を招いて殺された(前47)。プトレマイオス14世は前47年クレオパトラとの共同統治者となったが,前44年彼女の命令で暗殺された。彼女はカエサル,次いでアントニウスの援助によってエジプト王位を継いだが,前30年アクティウムの海戦オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れて王国はここに滅亡し,エジプトはローマ帝国の一属州となった。

この王国ではファラオ時代に起源をもつ中央集権的な官僚組織を利用して,マケドニア人,ギリシア人が土着のエジプト人の支配にあたっていた。他のヘレニズム諸王国にみられるギリシア風のポリスアレクサンドリアとプトレマイオス以外ほとんどみられなかった。ナイル川の定期的な増水,氾濫後に堆積する沃土を利用した農業が栄え,小麦が主要輸出品であり,王国富裕化の源であった。それゆえ諸王は増産のため,干拓,土地測量や,その管理,作物の品種改良に努めた。全国土は国王の私有地であったが一部は神殿領,植民兵保有地,王の側近貴族の私有地などとして下賜された。王料地で耕作する人々は〈王の農民geōrgoi basilikoi〉と呼ばれ,エジプト人のほとんどを占めていた。彼らは播種から収穫にいたる全農作業を監視されたのち,毎年一定額の生産物を小作料として納めなければならなかった。こうして集められた穀物は王に莫大な富の蓄積を可能にした。農業に限らず全産業が厳重な統制下におかれ,国家による生産から販売までの独占がエジプトの特色である。とくに植物油製造部門で独占のようすが詳しく知られる。ここでは採油植物(ゴマ,ベニバナなど)の種子の貸付け,作付け,収穫,製油,販売にいたるまで厳重な国家管理の下におかれ,採油植物の秘密栽培,油の密造などは厳禁されていた。外国産の油に対しては関税,小売税などが課され,王家の利益が守られていた。このほかパピルス,ビール,亜麻織物製塩,ソーダ製造などの産業があった。

 これらの国家統制のためには整備された官僚組織が不可欠であった。国土は約30の県(ノモスnomos)を筆頭に郡(トポスtopos),村(コメkōmē)に分けられ,おのおのに長官や書記をおいて住民およびその財産の掌握が行われた。王の財務長官(ディオイケテスdioikētēs)の下に各県,郡,村ごとに主計官もおかれ,租税をはじめ歳入・歳出に関するいっさいの事務が執り行われた。これらの重要官職はマケドニア人,ギリシア人に占められ,エジプト人は現場の作業監督やせいぜい村長や村の書記などの下級官吏になれるにすぎなかった。官僚組織が整っていたにもかかわらず,租税や他の国家収入は私的な請負業者に託されていた。官吏の徴収した税が換金されてのち請負額を下回ったときには,国家に対する保証人として彼らは不足分を支払い,上回ったときには,その余剰額を自分の懐におさめることができた。一見煩雑なこの制度は,国家が最少の出費で確実な収入を得ることができるように考え出されたものである。

 文化面ではアレクサンドリアに建てられたムセイオンが,その大規模な図書館(アレクサンドリア図書館)とともにヘレニズム時代を代表する学芸の中心となり,とくに文献学,自然科学の分野に優れた学者が輩出した。しかしギリシア・ヘレニズム文化は征服者のマケドニア人,ギリシア人に影響を与えただけで,エジプト人の間にはほとんど浸透しなかった。宗教ではプトレマイオス1世の創始したセラピス信仰が有名である。この神はギリシアの神々(ゼウス,アスクレピオスなど)とエジプト土着の神々(オシリスなど)の両方の性質を受け継いでいた。王都アレクサンドリアにはセラピス神殿(セラペイオン)が建てられ,王家の神として崇拝された。
エジプト →ヘレニズム
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百科事典マイペディア 「プトレマイオス王国」の意味・わかりやすい解説

プトレマイオス王国【プトレマイオスおうこく】

前305年―前30年エジプトを支配したマケドニア人の王朝。始祖はプトレマイオス1世。アレクサンドリアを首都とした。前3世紀後半小アジア,シリアにも進出し,プトレマイオス3世エウエルゲテス(在位前246年―前221年)時代にキュレネを併合,版図は最大となった。この時期までに官僚制度,税制を整え,重要産業を独占,有名な図書館や学術研究所(ムセイオン)を中心にヘレニズム文化が開花した。以後は王朝の内紛,王国の内乱により振るわず,前30年クレオパトラの治下にオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)に滅ぼされた。
→関連項目エジプト(地域)ヘレニズム

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世界大百科事典(旧版)内のプトレマイオス王国の言及

【ヘレニズム】より

…ここでは後者の意味での〈ヘレニズム〉について述べる。 しかしこの時代概念としてのヘレニズムの枠組みは諸説一定せず,年代的にはアレクサンドロスの東征進発(前334),または大王の即位(前336)ないし没年(前323)に始まり,ローマによるプトレマイオス王国征服(前30)に至る3世紀間とするのが通説だが,マケドニア王国の勃興と同時代のポリス世界の変質に注目して,前360年以降をヘレニズム時代とする有力な見方(H.ベングトゾン)もある。また〈ヘレニズム世界〉といわれる場合の地域範囲としては,一般にギリシア本土,マケドニア以東アレクサンドロス帝国に包含された東方領域全体が対象となるが,一方ではギリシア文化の拡散普及に力点を置いて,カルタゴ,イタリアなど西地中海周辺地域をもこれに含める見解(U.ウィルケン)もある。…

※「プトレマイオス王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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