プチャーチン
Putyatin, Evfimii Vasil'evich
[生]1803.11.8.
[没]1883.10.16.
ロシア帝国の海軍将官,幕末の日露和親条約の締結使節。1852年日本との国交,通商関係設定の命を受け,嘉永6(1853)年7月長崎に来航,江戸幕府に拒否されて退去したが,同6年12月長崎に再来。幕府応接掛筒井政憲らと通商および国境画定問題の交渉にあたった。クリミア戦争勃発のため退去したが,安政1(1854)年3月三たび長崎に来航,交渉案件の覚え書を幕府に提出。同1年9月カムチャツカから箱館を経て大坂天保山沖に停泊,幕府の要請に応じて下田(→下田市)に回航。同1年11月移乗した軍艦『ディアナ』号が津波で大破したが,12月に下田に上陸し,日米和親条約と同様の条約を 12月21日,日露間に締結することに成功した。さらに同4年長崎に来航,長崎,箱館開港の追加条約を調印,同5年7月には江戸で日露修好通商条約および付属貿易章程の調印に成功し,徳川慶福(→徳川家茂)に謁見した。功により海軍大将となり,1861年文部大臣となって政界で活躍した。プチャーチンの秘書として随行した文学者イワン・ゴンチャロフ著『フリゲート艦パラーダ号』Fregat Pallada(1858)の部分訳『日本渡航記』(『新異国叢書』に「ゴンチャローフ日本渡航記」として所収)に日露交渉の詳細が記されている。(→異国叢書)
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プチャーチン
ぷちゃーちん
Евфимий Васильевич Путятин/Evfimiy Vasil'evich Putyatin
(1803―1883)
ロシアの海軍提督。遣日使節。1822年海軍兵学校を卒業、ラザレフの世界周航探検隊に参加し、ペルシア派遣使節などを経たのち、日本との国交および通商関係樹立の特命を受け、53年(嘉永6)7月18日、パルラダ号以下軍艦四隻を率いて長崎に来航した。ロシア皇帝の国書を手交し、千島(ちしま)・樺太(からふと)(サハリン)の測量と開国通商を求めたが調わず、同年12月5日再度来航して長崎で通好条約、国境問題の交渉を開始した。クリミア戦争の勃発(ぼっぱつ)により、翌年1月一時上海(シャンハイ)に退いたが、その後も長崎、樺太、箱館(はこだて)などに現れて機をうかがい、12月21日下田(しもだ)において日露通好条約を結んだ。下田滞在中に津波にあって乗船ディアナ号を失い、戸田(へだ)で代船ヘダ号を建造させた。これがわが国での西洋型船建造の始まりである。その後、57年(安政4)9月7日長崎で日露追加条約、翌年7月11日江戸で日露修好通商条約および付属貿易章程の調印に携わり、その功により海軍大将に昇進した。以後文部大臣、国務顧問官などを歴任し、83年10月16日パリで没した。
[小林真人]
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プチャーチン
没年:露暦1883.10.16(1883.10.28)
生年:露暦1804.11.7(1804.11.19)
幕末のロシアの海軍軍人。1822年海軍士官学校卒業。海軍少尉を経て,42年海軍少将。48年ペルシャとの国境を画定し,通商交渉を果たした。52年5月18日,海軍中将・侍従武官長であった極東通のプチャーチンはロシアの第3回遣日全権大使節に任命され,嘉永6年7月18日(1853年8月22日)長崎に着任。日露会談を重ね,安政1年12月21日(1855年2月7日)下田で日露和親条約を締結し,樺太は両国の共有地と定められた。この交渉中,旗艦ディアナ号が地震で沈没する。58年6月に清国と天津条約を,安政5年7月11日(8月19日)には日露修好通商条約を締結した。59年海軍大将,61年文部大臣になるがまもなく辞任した。<著作>『ゴンチャローフ日本渡航記』(高野明・島田陽訳)
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「プチャーチン」の意味・わかりやすい解説
プチャーチン
ロシアの海軍提督。1853年開国通商,国境画定を求めて長崎に来航(作家ゴンチャロフも同行),いったんは長崎を離れたが再入港して幕府から派遣された筒井政憲(まさのり),川路聖謨(としあきら)らと会談した。しかし交渉は不調に終わる。1854年今度は下田に入港して1855年2月(安政1年12月)日露通好条約(日露和親条約)の締結に成功した。
→関連項目古賀謹一郎|戸田[村]|ポシェット|箕作阮甫|本木昌造|安井息軒
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プチャーチン Putyatin, Efim Vasilyevich
1804-1883 ロシアの軍人。
1804年11月19日生まれ。嘉永(かえい)6年(1853)ロシア艦隊司令長官兼遣日使節として長崎に来航。安政元年下田で日露和親条約を締結。下田滞在中に旗艦ディアナ号が津波で沈没し,戸田で代船を建造した。4年再来航,5年江戸で日露修好通商条約をむすんだ。海軍大将。1883年10月28日死去。78歳。ペテルブルグ出身。海軍士官学校卒。
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プチャーチン
(Jevfimij Vasil'jevič Putjatin エッフィミー=ワシリエビチ━) ロシアの海軍の元帥。伯爵。嘉永六年(一八五三)長崎に来航。安政元年(一八五四)日露和親条約、同五年日露修好通商条約を締結。(一八〇四‐八三)
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デジタル大辞泉
「プチャーチン」の意味・読み・例文・類語
プチャーチン(Evfimiy Vasil'evich Putyatin)
[1804~1883]ロシアの海軍軍人。嘉永6年(1853)日本との条約締結の特命を受けて来日。安政元年12月21日(1855年2月7日)に日露和親条約、安政5年7月11日(1858年8月19日)に日露修好通商条約を締結。
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プチャーチン
生年月日:1803年11月8日
帝政ロシアの海軍将官,幕末の日露和親・通商条約の締結使節
1886年没
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プチャーチン【Evfimii Vasil’evich Putyatin】
1804‐83
ロシアの提督,政治家。海軍兵学校の出身。1842年カスピ海におけるロシアの権益を守るためイランに派遣された。52年日本との条約締結の命をうけ軍艦パルラダ号に乗船してクロンシタット港を出帆,翌53年8月(嘉永6年7月)に長崎に入港して開国・通商と千島・樺太の国境画定を求めた。おりからクリミア戦争前夜でイギリス,フランス両国との関係が悪化したためいったん長崎を退去,54年1月(嘉永6年12月)再び来航して幕府が派遣した筒井政憲,川路聖謨(としあきら)らと会談を重ねたが,交渉は不調のまま長崎を去った。
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世界大百科事典内のプチャーチンの言及
【サハリン】より
…海軍士官ネベリスコイG.I.Nevel’skoiらによって外洋を航海する船もアムール河口に出入りできることが確認され,またサハリン北部において良質で豊富な石炭層が発見されたことにより,この島の戦略的・経済的重要性が著しく高まり,53年(嘉永6)ロシア政府は露米会社にその占領を命じた。同年長崎に来航したロシア使節プチャーチンも,幕府にサハリンおよび千島の国境画定を要望し,その結果55年2月7日(安政1年12月21日)の〈日露和親条約〉ではサハリンは両国の間で〈界を分たず〉と規定された。幕府は1821年以来松前藩領に復していたこの島を,55年に再び直轄して漁場を北緯49゜付近まで拡大し,またロシア側は少数の兵士を北緯48゜のイリインスキー(久春内(くしゆんない))地峡に定住させるなど,日露両国のサハリン進出が積極化した。…
【日露和親条約】より
…日露修好条約,安政条約などともいう。ロシア側全権の海軍中将プチャーチンは1852年10月出発以来,帰国までに3年2ヵ月を費やして使命を達成した。クリミア戦争の開始や旗艦ディアナ号の沈没などの苦難があったが,平和的な外交交渉に徹して,ペリーの用いた軍事力の誇示も一切行わなかった。…
※「プチャーチン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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