ブルガリア史(読み)ブルガリアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブルガリア史」の意味・わかりやすい解説

ブルガリア史
ブルガリアし

古代においてはトラキア=イリュリア系の住民が居住,マケドニア,ローマ帝国,ビザンチン帝国の支配を受けたが,6~7世紀にスラブ人が移住。他方ボルガ河畔に居住したウラル=アルタイ系のブルガール人が5世紀に黒海北岸に進出し,イスペリフに率いられた一部は 679年ハザールの圧迫を受けてドナウ川を越え,バルカン半島北部に国家を建設 (第1ブルガリア帝国) 。9世紀ボリス1世ミハイルがブルガール系の支配階級とスラブ系の住民との融合をはかるためキリスト教 (ギリシア正教) を導入,その子シメオン1世 (大帝) はベッサラビア,マケドニア,アルバニアセルビアを合せてビザンチンを圧迫した。しかしその死後内部抗争が起り,ビザンチンの攻撃を受けて衰亡。この混乱のなかから西ヨーロッパの異端運動にも大きな影響を与えたボゴミール運動 (→ボゴミール派 ) が発生。 1186年タルノボ (トゥルノボ) でアセン兄弟がビザンチンの圧政に抗して蜂起し,第2ブルガリア帝国を創建。第4代イワン・アセン2世はマケドニア,エピルス,セルビアなどを合せて黄金時代を再現した。しかしその死後モンゴル人の襲来 (1241) ,セルビアの台頭によって急速に衰退し,1393,96年オスマン帝国の攻撃を受けて滅亡。その支配下においては支配階級の子弟イェニチェリに徴用されてイスラム化され,農民は宗教的自治を許されたが経済的に収奪され,特に 17世紀以降治安が乱れ,搾取がはなはだしくなった。ようやく 19世紀にいたって民族意識が覚醒。 1876年の四月蜂起に続いて露土戦争が起り,ベルリン条約によってオスマン帝国の宗主権下に独立を獲得。 79年ヨーロッパで最も民主的な『タルノボ憲法』を採択,バッテンベルク家のアレクサンデルを公に迎えた。アレクサンデルは 86年セルビアに兵を進めて東ルメリアを併合したが,ロシアの不興を買って退位。次いでザクセン=コーブルク=ゴータ家のフェルディナントが立って,1908年列強から完全独立の承認を取付け,皇帝を名のった (第3ブルガリア帝国) 。しかしバルカン戦争で南ドブルジャとマケドニアを失い,第1次世界大戦に際して中欧列強側に加担して敗北。 20年農民党の A.スタンボリースキ首相就任農地改革を実施,善隣外交を推進したが,23年クーデターで暗殺された。以後 A.ツァンコフの反革命テロ体制,26~35年権威主義的議会内閣制,35年以降ボリス3世の独裁が続いた。第2次世界大戦に際して枢軸側に加担。戦争末期共産党を中心とする祖国戦線が蜂起し,政権を掌握。戦犯二千数百名を処刑し,46年王制を廃止。 47年 G.ディミトロフの指導する共産党の1党独裁体制が確立し,東欧内では比較的安定した政権を維持した。しかし,1980年代に入り,ソ連の改革,東欧諸国の民主化の波のなかで,1党独裁を放棄,複数政党制を採用し,90年1月国名から「人民」を削除した。

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