ブラッドリー(英語表記)James Bradley

精選版 日本国語大辞典 「ブラッドリー」の意味・読み・例文・類語

ブラッドリー

[一] (Andrew Cecil Bradley アンドリュー=セシル━) イギリスの学者、批評家。(三)の弟。オックスフォード大学詩学教授ドイツ観念論の影響をうけ、主著「シェークスピア悲劇論」で登場人物の性格批評を展開。(一八五一‐一九三五
[二] (James Bradley ジェームズ━) イギリスの天文学者。一七二七年恒星の年周視差測定のため観測中、光行差を発見。六万個に及ぶ恒星の位置を測定。(一六九三‐一七六二
[三] (Francis Herbert Bradley フランシス=ハーバート━) イギリスの哲学者。新ヘーゲル学派経験論に反対し、純粋直観による絶対者の把握を哲学の本質においた。主著「現象と実在」。(一八四六‐一九二四

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デジタル大辞泉 「ブラッドリー」の意味・読み・例文・類語

ブラッドリー(Francis Herbert Bradley)

[1846~1924]英国の哲学者。新ヘーゲル主義の立場に立ち、経験論を批判して、純粋直感による絶対者の把握を説いた。著「現象と実在」。

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改訂新版 世界大百科事典 「ブラッドリー」の意味・わかりやすい解説

ブラッドリー
James Bradley
生没年:1693-1762

イギリスの天文学者。貴族の息子としてグロースターシャーに生まれる。オックスフォードのベイリオル・カレッジに学び,1718年ローヤル・ソサエティ会員,21年オックスフォードのサビル教授,42年E.ハリーの死とともに後任としてグリニジ天文台長。フランス,プロイセンロシアなどのアカデミーの会員にも選ばれた。

 ブラッドリーの仕事としてもっとも著名なのは1728年の星の光行差の発見である。地球の公転による年周視差の確認は18世紀天文学者の最大の問題だった。ブラッドリーは丹念な観測を積み重ね,恒星のわずかな位置のずれを発見した。しかしこれは年周視差として説明できる性質のものとは異なったずれであった。ブラッドリーは,これをいわゆる〈光行差〉として説明した。また恒星の視角の年周期のわずかな変化を観測して地軸の章動によってそれを説明した(1748)。
執筆者:

ブラッドリー
Andrew Cecil Bradley
生没年:1851-1935

イギリスの学者,批評家。とくにシェークスピア研究で有名。オックスフォード大学卒業後,リバプール,グラスゴーの大学を経て,母校の詩学教授(1901-06)となる。この間の講義をもとに《シェークスピアの悲劇》(1904),《オックスフォード詩学講義》(1909)を発表。前者は,シェークスピアの四大悲劇を中心にした精細な鑑賞批評であり,登場人物の性格分析において傑出している。19世紀のロマン主義的な批評の到達しえた最高の水準というべきであろう。なお,哲学者F.H.ブラッドリーは兄。
執筆者:

ブラッドリー
Francis Herbert Bradley
生没年:1846-1924

イギリスの哲学者。文芸批評家A.C.ブラッドリーはその弟。オックスフォードに学び,マートン・カレッジのフェローとなる。T.H.グリーンやケアードによって導入されたヘーゲル哲学に深く影響を受け,新理想主義派としてイギリス伝統の功利主義倫理を批判した。晩年はプラトン主義的神秘主義形而上学に到達した。おもな著作に,《倫理研究》(1876),《論理学原理》(1883),《仮象と実在》(1893)などがある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブラッドリー」の意味・わかりやすい解説

ブラッドリー
Bradley, James

[生]1693.3. グロスターシャー,シャボーン
[没]1762.7.13. グロスターシャー,チャルフォード
イギリスの天文学者。オックスフォード大学で神学を学び,教区牧師となる (1719) 。叔父の指導によって天文学研究を始め,E.ハレーとも親交があった。ロイヤル・ソサエティ会員 (18) ,オックスフォード大学天文学教授 (21) ,グリニッジ天文台台長 (42) 。精密観測によって発見した恒星の見かけの位置の2種の周期的変化のうち,一方が地球の公転速度と光速度との合成効果によるものであり (光行差の発見。 28年にロイヤル・ソサエティ報告) ,他方が月の引力による地球自転軸の方向変化 (章動 ) によるものであることを突止めた。 1748年ロイヤル・ソサエティからコプリー・メダルを受ける。

ブラッドリー
Bradley, Omar N(elson)

[生]1893.2.12. ミズーリ,クラーク
[没]1981.4.8. ニューヨーク
アメリカの陸軍軍人。ブラドレーとも表記される。 1915年陸軍士官学校卒業。第2次世界大戦では,師団長を経て,43年第2軍団長として北アフリカ作戦に従事,チュニジアを解放,さらにシチリア島に侵攻した。同年イギリスに転じ,第1軍司令官としてフランス解放作戦に参加,44年6月ノルマンディー上陸作戦に成功,パリを解放したあと,第 12軍集団最高司令官としてフランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,チェコスロバキアを制圧した。 49年戦後初代統合参謀本部議長。 50年陸軍元帥。 53年退役後は,ブローバー時計会社社長に就任。著書に『回想録』A Soldier's Story (1951) がある。

ブラッドリー
Bradley, Francis Herbert

[生]1846.1.30. サーリー,クラファム
[没]1924.9.18. オックスフォード
イギリスの哲学者。オックスフォード大学に学び,1870年マートン・カレッジの研究員となり,病弱のため生涯この地位にとどまった。ヘーゲルらのドイツ観念論の影響を受け,J.S.ミルの功利主義や功利主義的倫理学に反対した。主著『論理学原理』 Principles of Logic (1883) ,『仮象と実在』 Appearance and Reality (93) ,『真理と実在』 Essays on Truth and Reality (1914) 。

ブラッドリー
Bradley, Andrew Cecil

[生]1851.3.26. グロスターシャー,チェルトナム
[没]1935.9.2. ロンドン
イギリスの文学研究者,批評家。 F.H.ブラッドリーの弟。オックスフォード大学で哲学を学び,のち英文学研究に転じ,リバプール大学の近代文学教授,グラスゴー大学の英語英文学教授,オックスフォード大学の詩学教授を歴任。四大悲劇を論じた『シェークスピアの悲劇』 Shakespearean Tragedy (1904) はシェークスピア批評に新紀元を画した。

ブラッドリー
Bradley, Henry

[生]1845
[没]1923
イギリスの言語学者。『オックスフォード英語辞典』の編者の一人,のちにその主幹。著書に『英語の成立』 The Making of English (1904) 。

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百科事典マイペディア 「ブラッドリー」の意味・わかりやすい解説

ブラッドリー

英国の天文学者。初め神学者。1742年グリニッジ天文台長。1728年恒星の位置のずれを光行差として説明,1748年には恒星の視覚の年周期のわずかな変化を地軸の章動で説明した。
→関連項目光行差

ブラッドリー

英国の哲学者。英国におけるヘーゲル学派の第一人者で,新理想主義を掲げて功利主義を批判した。著書《倫理研究》(1876年),《仮象と実在》(1893年)など。なお,弟のA.C.ブラッドリーAndrew Cecil B.〔1851-1935〕はシェークスピア研究で有名な文芸批評家。

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世界大百科事典(旧版)内のブラッドリーの言及

【シェークスピア】より

…このようなロマン主義批評はイギリスでは詩人批評家のS.T.コールリジによって先鞭をつけられるが,シェークスピアはヨーロッパとくにドイツにおいても偶像視されるようになる。ロマン主義批評は《シェークスピアの悲劇》(1904)の著者A.C.ブラッドリーによって集大成された。また,19世紀のシェークスピア批評は,W.ハズリットに代表されるいわゆる性格批評がその中心をなし,劇中人物の心理と行動原理が追究された。…

【国家】より

…ヘーゲル的立場は,工業化の進展に伴う社会問題の拡大と帝国主義の成立に伴う国際緊張の増大に伴って,国家権力の積極的意義が評価されはじめるとともに,ドイツ以外の国でも注目されるようになった。たとえば,イギリスでもT.H.グリーン,F.H.ブラッドリー,B.ボーザンケトらが,ヘーゲルの影響の下に,国家の倫理性を強調しつつ,国家が社会問題に積極的に介入することを正当化したのである。ヘーゲル的立場は,のちに著しくゆがめられた形で,ナチズムやファシズムの国家観に現れたが,しかしそこでは少なくともヘーゲル哲学の合理性は完全に排除され,国家一元論は著しく非合理的かつ神話的な形をとることになったといえよう。…

【新ヘーゲル学派】より

…しかし世紀末から再び生まれてきた〈精神〉を重視する立場が強くヘーゲルの影響を受けていたために〈新ヘーゲル学派〉と総称され,ファシズム期の終りまで影響を残した。イギリスのT.H.グリーン,F.H.ブラッドリーは,ヘーゲル以上に〈精神〉を超越的なものと解していたために,G.E.ムーアの経験主義の反発を招き,B.A.W.ラッセルの経験主義的原子論の成立を促す結果となった。イタリアのクローチェ,ジェンティーレは,ラブリオーラを経由して,人間の能動性の再評価を促して,マルクス主義に影響を与えた。…

【光行差】より

…天体が黄道上にあれば光行差は長さ2kの線分上の往復運動になり,天体が黄緯βの位置にあれば光行差は半長軸k,半短軸ksinβの微小楕円になる。 1725年イギリスのJ.ブラッドリーは,ロンドン近郊のキューに設置した天頂セクターという長さ3.8mの特殊望遠鏡を使い,ロンドンの天頂を通過するりゅう座γ星の赤緯変化を精密観測して年周視差を発見しようとしたが,検出された結果は年周光行差であった(1728)。年周光行差の場合にはどの天体に対しても一律にk=20.″49であり,これを光行差定数というが,年周視差の場合には天体の距離に応じて,このずれの角度は異なり,もっとも近い星の場合でも視差p=0.″760という微小角で,ブラッドリーの測定精度では達しえなかった。…

【光速度】より

…O.レーメルは1675年ごろ木星の衛星の食の開始時刻が周期的に変化することを見いだし,この変化は木星から地球まで光が伝わるのに要する時間が地球の公転によって異なるために生ずるとして,光速度約2.2×108m/sを見積もった。また,J.ブラッドリーは1725年ごろに地球の公転速度によって光の進入方向がわずかに傾く効果を用いて光速度を求めた。これら天文学的方法に対して地上の光学実験で光速度を測定した例の中では,1849年のA.フィゾーによる回転歯車を用いた測定(フィゾーの実験,3.13×108m/s)およびその翌年J.フーコーが行った回転鏡を利用した測定(2.98×108m/s)が有名である。…

【天文台】より

…初代台長のJ.フラムスティードに次いで2代台長をつとめたE.ハリーは,1705年ハリーすい星が周期すい星であることを見つけ,また18年にはシリウス,アークトゥルスなどの位置とT.ブラーエの観測値との差が,恒星の固有運動によるものであることをつきとめた。3代台長J.ブラッドリーも,光行差や章動の発見者として著名である。グリニジ天文台の子午環を通る子午線が経度の基準になっていることからも,ここが位置天文学の大本山であったことがうかがえる。…

※「ブラッドリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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