ブハラ・ハン国(読み)ぶはらはんこく(英語表記)Bukhārā Khanate

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブハラ・ハン国」の意味・わかりやすい解説

ブハラ・ハン国
ぶはらはんこく
Bukhārā Khanate

16世紀初頭からブハラを首都に西トルキスタンの中南部を支配したウズベク人の三つの王朝シャイバーニー朝(1500~99、首都がサマルカンドの時期もある)、アストラハン朝(1599~1782、ジャーン朝ともいう)、マンギット朝(1753~1920)に対する総称。ブハラは中央アジアにおけるイスラム教学と商業の中心地として知られた。政権はウズベク諸部族の抗争のために安定を欠いたが、18世紀末からロシアとの商業関係が深まるとともに国内統一が進展した。しかし、中央アジアの植民地化を目ざすロシアに敗れ、1868年から事実上その保護国となった。20世紀に入ると政治、社会制度の近代化を求める改革運動が芽生え、それはロシア革命と合流して、1920年の革命ブハラ人民ソビエト共和国(1920~24)の樹立に結実した。

[小松久男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブハラ・ハン国」の意味・わかりやすい解説

ブハラ・ハン国
ブハラ・ハンこく
Bukhara Khanate

16世紀末~20世紀初め,中央アジアにあった封建国家シャイバーニー朝アブドゥッラー2世 (在位 1583~98) の死後,アストラハン家のバーキー・ムハンマド建国。ブハラを首都として西トルキスタンを支配したが,封建的分裂の状態となり,18世紀にナーディル・シャーに征服された。ナーディル・シャーの死後マンギト朝が興り,国家はやや安定したが,1868年にロシア軍に敗れ,ロシアの保護国となった。十月革命後もこの国は存続したが,1920年9月人民大衆の蜂起が起り,ブハラ人民共和国が成立した。しかし,まもなく 24~25年,民族自決原理によって新たに諸共和国がソ連領中央アジアにつくられると,それらのなかに編入された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブハラ・ハン国」の解説

ブハラ・ハン国(ブハラ・ハンこく)

ブハラを首都としたウズベク政権,シャイバーン朝(1501~99),ジャーン朝(1599~1756),マンギト朝(1756~1920)の総称。ウズベク諸部族の抗争とナーディル・シャー侵攻によって衰退したのち,18世紀末からマンギト朝が中央集権化を実現した。1868年ロシアの保護国となり,ロシア革命後の1920年赤軍の介入した革命によって滅亡した。

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