フーバー(英語表記)Herbert Clark Hoover

精選版 日本国語大辞典 「フーバー」の意味・読み・例文・類語

フーバー

(Herbert Clark Hoover ハーバート=クラーク━) アメリカ合衆国第三一代大統領(在任一九二九‐三三)。商務長官として第一次世界大戦後の失業救済、貿易伸長に尽力したが、大統領就任後、大恐慌の克服に失敗した。(一八七四‐一九六四

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改訂新版 世界大百科事典 「フーバー」の意味・わかりやすい解説

フーバー
Herbert Clark Hoover
生没年:1874-1964

アメリカ合衆国第31代大統領。在職1929-33年。アイオワ州に生まれ,幼くして両親を失う。15歳でみずから生計を立て,やがて鉱山技師をめざして新設のスタンフォード大学に入学。卒業後は鉱夫を経て鉱山技師となり,海外での鉱山開発に当たるうちに経営面でも成功し,ついには世界屈指の鉱山事業家となった。自助自立の体験は,彼自身の中に個人主義への強い信奉をはぐくみ,後年,《アメリカの個人主義》(1922)の執筆を生んだ。第1次大戦勃発後は〈ベルギー救済委員会〉の委員長を務め,同地への生活物資救援に貢献した。1917年には,その実務的手腕をウィルソンに買われ,食糧庁長官として非常時の国家の食物管理に当たった。21年,ハーディング政権下で商務長官となり,商務省を拡張し,国内の産業政策に機能化を導入した。クーリッジの下でも引き続き同地位にあったが,28年の選挙では自身共和党から出馬し,大勝した。しかし就任後半年余にして起こった経済恐慌大恐慌)はフーバー政権の命取りとなり,フーバーは連邦農業委員会の強化や復興金融公庫(RFC)の設立,フーバー・モラトリアムの宣言といった恐慌対策を打ち出しながら,経済復興の十分な成果を示しえず,32年の選挙ではF.D.ローズベルトに大敗した。彼はローズベルトとは相いれるところがなかったが,トルーマン時代(1945-53)には難民救済や行政改革に一役買い,フーバーらしい活躍の幅広さを示した。
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フーバー
Eugen Huber
生没年:1849-1923

スイスの私法・法史学者。スイス民法草案起草者として高名。チューリヒ大学卒業後,同大私講師,新聞編集者などを経て,バーゼル大学正教授となる(1881)。スイス民法典草案の起草を委託されると同時に,ベルン大学教授に就任(1892)。全4巻の大著《スイス私法の体系と歴史》(1886-93)を基礎として,スイス民法典の部分草案を単独で起草したことが彼の名を不朽のものとした。1907年に成立し,12年に施行されたスイス民法典は,法の欠缺性の承認,法文簡潔性の重視など,法の名あて人を法律専門家としたドイツ民法と対比される。《ドイツ物権法におけるゲウェーレの意義》(1894)は,法史学者としての名声を確立した。
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百科事典マイペディア 「フーバー」の意味・わかりやすい解説

フーバー

スイスの作曲家。ベルンに生まれ,チューリヒ音楽院で作曲とバイオリンを学んだのち1955年−1956年ベルリンでブラッハーに師事。オラトリオ《聖アウレリウス・アウグスティヌスの独白》(1959年−1964年),管弦楽曲《テネブレ(暗闇)》(1966年−1967年),バイオリンとオーケストラのための《テンポーラ(四季斎日)》(1969年−1970年)などでミュジック・セリエルの手法を独自に深化させ,現代ヨーロッパを代表する作曲家の一人となる。作品は宗教性が濃く,H.ベルの文章などを用いた語り手と合唱,器楽アンサンブルのための《回転する歌》(1985年),管弦楽曲《20世紀末の嘆き》(1994年)などには戦争と殺戮(さつりく)が続く現代への祈りが響く。フライブルク高等音楽大学ほかで長らく教鞭(きょうべん)をとり,弟子には細川俊夫〔1955-〕,韓国の朴琶案泳姫(パクパーン・ヨンギ)〔1945-〕などアジアの逸材も多い。
→関連項目ホリガー

フーバー

米国の政治家。第31代大統領(1929年―1933年)。共和党。第1次大戦中から戦後にかけ難民救援活動に手腕を振るった。ハーディング,クーリッジ両政権で商務長官(1921年―1928年)として経済的繁栄政策を展開,大統領就任後も拡大経済を唱えたが,1929年の大恐慌打開策(フーバー・モラトリアム)に失敗。1932年の選挙でF.D.ローズベルトに大敗。第2次大戦後1947年―1955年にかけ行政機構再編成委員会(フーバー委員会と通称)の長として機構改革・経費合理化に当たった。
→関連項目フーバー・ダム

フーバー

米国の連邦捜査局FBIの育ての親。1919年司法省に入り,同省捜査局補佐官を経て,1924年クーリッジ大統領に抜擢されて以後48年間にわたってFBI長官。1930年代のギャング狩り,冷戦期のスパイ狩りなどで名をなした。1950年代から1960年代には公民権運動ベトナム反戦運動を弾圧しようとした保守反共主義者。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フーバー」の意味・わかりやすい解説

フーバー
Hoover, Herbert Clark

[生]1874.8.10. アイオワ,ウェストブランチ
[没]1964.10.20. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカの政治家。第 31代大統領 (在任 1929~33) 。 1895年スタンフォード大学卒業。オーストラリアや中国の鉱山開発などに従事したあと,1908年鉱山事業で成功。 17年食糧庁長官,21年商務長官,28年 A.スミスを破って大統領に当選。しかし経済恐慌に見舞われたため,連邦農業委員会を強化して穀物,綿花を買支え,また復興金融公社を設立して銀行,鉄道,保険会社などに対する融資を行うなど,恐慌対策に終始した。 32年の大統領選挙では F.ルーズベルトに敗れ,引退。その後は H.トルーマン政権下で行政府機構委員会 (→フーバー委員会 ) 委員長,外国訪問などを通じて内外政策に貢献した。著書『回想録』 The Memoirs of Herbert Hoover (3巻,1951~52) ,"American Epic" (2巻,59~60) など。

フーバー
Huber, Max

[生]1874.12.28. チューリヒ
[没]1960.1.1. チューリヒ
スイスの法学者。 1902年チューリヒ大学教授,13年外務省法律顧問,21年常設国際司法裁判所判事,25年同長官,24年ハーグの常設仲裁裁判所長官となった。裁判義務による国際紛争の平和的解決を強調し,常設国際司法裁判所設置の素地をつくり,同裁判所規程草案の作成に尽力した。その他,国際平和のため赤十字国際委員会で活躍。 28~44年その会長をつとめ,49年のジュネーブ4条約の成立に貢献した。主著『国際法の社会学的基礎』 Die soziologischen Grundlagen des Völkerrechts (1928) ,『国際赤十字委員会の活動の原則と基礎』 Grundsätze und Grundlagen der Tätigkeit des Internationalen Komitees von Roten Kreuz (47) ,『著作権』 Vermischte Schriften (3巻,47~48) 。

フーバー
Hoover, John Edgar

[生]1895.1.1. アメリカ,ワシントンD.C.
[没]1972.5.2. アメリカ,ワシントンD.C.
アメリカの公務員。ジョージ・ワシントン大学夜間部に通い,1917年法学修士号を取得。同年司法省捜査局 (連邦捜査局 FBIの前身) に入局,24年 FBI長官に就任した。以来終身その職にあって,捜査官の人選,訓練を厳格にし,世界最大の指紋記録ファイルをつくり,犯罪の科学的な解明などに努め FBIの権威を高めた。独身で,FBIの政治的中立を保つよう努力した。在職中その独裁的なやり方がしばしば批判されたが,彼の偉大な名声のため,どの大統領もあえて彼を解任することはなかった。

フーバー
Huber, Robert

[生]1937.2.20. ミュンヘン
ドイツの生化学者。 1963年ミュンヘン工科大学で博士号を得て,マックス・プランク研究所生化学研究所に入った。 J.ダイゼンホーファー,H.ミヒェルとともに光合成細菌膜蛋白質の立体構造を解明。フーバーは光合成反応の中心となる蛋白質の結晶にX線を当てるX線回折の手法で,原子単位での構造解明に貢献した。3人の研究は光合成反応の機構研究を前進させ,88年ノーベル化学賞受賞。

フーバー
Huber, Wolf

[生]1485頃.フェルトキルヘ
[没]1553. バイエルン,パッサウ
ドイツの画家,素描家。 A.アルトドルファーとともにドナウ派の代表者の一人。 1510~15年アルトドルファーのもとで修業した。 15年からパッサウに定住して,40年まで宮廷画家として活躍。作品は『聖アンナの祭壇画』 (1521,フェルトキルヘ聖ニコラス聖堂,ウィーン美術史美術館) ,詩的風景画『ダニューブ渓谷』 (29,ベルリン国立美術館) 。

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化学辞典 第2版 「フーバー」の解説

フーバー
フーバー
Huber, Robert

ドイツの生化学者.ミュンヘン工科大学で化学を学び,ジアゾ化合物の結晶構造の研究で,1963年博士号を取得.マックス・プランク協会生化学研究所所員を経て,1972年より同研究所構造研究部門部長,1987年同研究所所長となる.また,1976年よりミュンヘン工科大学教授を兼任.1982年同研究所のH. Michel(ミヘル)が光合成細菌Rhodopseudomonas vidridisから単離した光合成反応中心複合体(膜タンパク質の一種)の三次元構造を,J. Deisenhofer(ダイゼンホーファー)とともにX線回折を用いて解析した.電子伝達成分である光合成色素の相互配置や,タンパク質サブユニットの構造,色素分子とタンパク質の相互作用を明らかにし,光合成の初期段階における電子伝達機構を解明した.1988年Michel,Deisenhoferとともにノーベル化学賞を受賞した.

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「フーバー」の解説

フーバー Hoover, Blain

1893-1950 アメリカの労働問題専門家。
1893年1月23日生まれ。昭和21年アメリカ人事行政顧問団(フーバー使節団)団長として来日。日本の官僚制度の改革を勧告。22年成立の国家公務員法を不満として再来日,GHQ民政局公務員課長として23年11月公布の改正国家公務員法(争議行為の禁止など)を成立させた。1950年9月3日死去。57歳。コロラド州出身。

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367日誕生日大事典 「フーバー」の解説

フーバー

生年月日:1849年7月13日
スイスの法律学者
1923年没

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世界大百科事典(旧版)内のフーバーの言及

【デ・レ・メタリカ】より

…世界で最初の体系的な技術書として,18世紀半ばまでヨーロッパの鉱山関係者にとってのバイブルとされた。1912年アメリカの大統領であったH.C.フーバー夫妻が英語版に翻訳してから世界的に知られるようになり,日本でも68年に全訳とその研究に関する本が刊行されている。【雀部 晶】。…

※「フーバー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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