フルウールト(読み)ふるうーると(英語表記)Hendrik Frensch Verwoerd

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フルウールト」の意味・わかりやすい解説

フルウールト
ふるうーると
Hendrik Frensch Verwoerd
(1901―1966)

南アフリカ共和国の政治家。オランダアムステルダムに生まれる。2年後宣教師の父に伴われてケープ・タウンに移住。ステレンボッシュ大学卒業後、ドイツに留学。1927年帰国し母校の教授となる(1927~1937)。その間、国民党および秘密結社ブルーダーボンドに入党。1937年アフリカーンス語新聞『ディ・トランスファーラー』紙の編集局長を務め、1948年上院議員に指命され、1950~1958年先住民問題相となり、さまざまな人種差別政策を施行した。1958年首相に就任後、1959年黒人に対し従来の隔離政策から分離発展政策への方向を打ち出し、1960年3月のシャープビル事件(反アパルトヘイト集会に対する白人警官隊の無差別発砲事件)を契機に黒人民族組織アフリカ民族会議(ANC)とパン・アフリカニスト会議(PAC)を非合法化した。その人種差別政策のために南アフリカ連邦は1961年3月イギリス連邦を離脱し、同年5月に共和国に移行したが、引き続き首相にとどまった。1966年9月6日、議会内で白人守衛に暗殺された。

[林 晃史]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フルウールト」の意味・わかりやすい解説

フルウールト
Verwoerd, Hendrik Frensch

[生]1901.9.8. アムステルダム
[没]1966.9.6. ケープタウン
南アフリカ共和国の政治家。生後まもなく南アフリカに移住。ステレンブーシュ大学で勉学ののちドイツへ留学,1927~37年ステレンブーシュ大学心理学および社会学教授。 37年国民党日刊機関紙"Die Transvaaler"の編集長,第2次世界大戦中はナチス路線を支持。 48年上院議員,50年先住民問題相となり,アパルトヘイト (人種隔離) の立法化を推進。 J.ストレイダム首相の死後,国民党党首となり,58年9月首相に就任し,アパルトヘイト政策を続けた。 61年5月 31日発足した共和国の初代首相,66年9月6日下院議場でギリシア生れの白人守衛 D.ツァフェンダスに刺殺された。

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