フラミニヌス(英語表記)Titus Quinctius Flamininus

改訂新版 世界大百科事典 「フラミニヌス」の意味・わかりやすい解説

フラミニヌス
Titus Quinctius Flamininus
生没年:前229?-前174

第2次マケドニア戦争(前200-前197)を勝利に導いたローマ将軍。30歳の若さでコンスルとして指揮権を握り,アイトリア同盟等の協力を得てテッサリアのキュノスケファライでマケドニア軍に大勝(前197),フィリッポス5世勢力ギリシア・小アジア全土から駆逐した。翌年コリントスのイストミア祭に臨んでギリシア人の自由を宣言,ローマ軍の撤退を約してギリシア人から〈救い主〉と感謝された。しかしその実,彼の考える〈自由〉とは各ポリスの親ローマ的富裕市民による寡頭支配確立にほかならず,スパルタ王ナビスの市民間の貧富の差の解消をめざす改革には激しい妨害を加えた。このような〈自由〉の名による干渉は,この後のローマの対ギリシア政策の基調となる。ローマへの凱旋(前194)後は,ギリシア人のパトロンとして東方外交を牛耳り,前183年にはビテュニア王宮廷にいたハンニバルの引渡しを要求して,彼を自殺に追い込んでいる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フラミニヌス」の意味・わかりやすい解説

フラミニヌス
Flamininus, Titus Quinctius

[生]前227頃
[没]前174. ローマ
古代ローマの軍人,政治家。ギリシアに好意をもち,前 198年アカイア連盟と結んでマケドニアのフィリッポス5世と戦い,彼を譲歩させて前 196年コリントでギリシア人の自由を宣言,そのためギリシア人から救世主とたたえられ神々と並んで祀られた。前 192年にも東方におもむき,スパルタ王ナビス,シリア王アンチオコス3世と戦い,アカイア連盟を守った。また前 183年にはビチュニア王プルシアスにハンニバルの引渡しを要求する使節となった。執政官 (コンスル,前 198) ,戸口総監 (ケンソル,前 189) をも歴任,外交手腕にすぐれ,ギリシアの自治を支持するリベラルな政策をとった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フラミニヌス」の意味・わかりやすい解説

フラミニヌス
ふらみにぬす
Titus Quinctius Flamininus
(?―前174)

古代ローマの軍人、政治家。紀元前198年若くしてコンスル(統領)となり、マケドニア王フィリッポス5世に勝利を収めて第二次マケドニア戦争を終結させた。前196年イストミアの祭典で「ギリシア人の自由」を宣言し、ローマによるギリシア、マケドニア支配の基礎を固めた。のちスパルタ王ナビスを破り、アルゴスをもローマの支配下に収めた。彼による一連の東方征服は、ローマがのちにギリシア、小アジア方面へ勢力を拡大していく基礎を築くことになった。

[田村 孝]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のフラミニヌスの言及

【ローマ】より

… 他方東部地中海に向かっては,アドリア海の海賊撲滅に続き,イリュリクム王国と2度の戦争(前229‐前228,前219)でこれを破ってイリュリクム海岸を勢力下に入れ,カルタゴの将軍ハンニバルの同盟者マケドニアの王フィリッポス5世と戦い(第1次マケドニア戦争。前214‐前205),これを制し,マケドニアの勢力回復におびえたロドスとペルガモンの求めに応じてローマは第2次マケドニア戦争(前200‐前196)に踏み切り,将軍フラミニヌスはテルモピュライでマケドニア軍を破った。続いて,ハンニバルがそのもとに亡命していたシリア王国のアンティオコス3世と戦争に入り(前192‐前189),これをマグネシアの地で破った。…

※「フラミニヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android