フォートリエ(英語表記)Jean Fautrier

デジタル大辞泉 「フォートリエ」の意味・読み・例文・類語

フォートリエ(Jean Fautrier)

[1898~1964]フランス画家抽象画を主として描き、第二次大戦中に制作された連作人質」は、アンフォルメル先駆として美術界に大きな影響を与えた。

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改訂新版 世界大百科事典 「フォートリエ」の意味・わかりやすい解説

フォートリエ
Jean Fautrier
生没年:1898-1964

フランスの画家。パリ生れ。1909年家族とともにロンドンに渡り,ローヤル・アカデミーに学ぶ。17年兵役のためフランスに戻り,やがてA.マルロー,J.ポーランら文学者と交友。28年にマルローの依頼でダンテの《神曲》地獄篇リトグラフによる挿画を制作し,これがアンフォルメルを予告するものとなる。40年から《人質》の連作を手がけ,45年ルネ・ドルーアン画廊で展観した。アンフォルメルの先駆でもあるこの作品は,絵具をパレットナイフで塗り重ねた厚い画肌をもち,顔や風景といった主題にもまして,画面そのものの強さによって際だっている。50年ころからは1作品について300点制作するといった〈複数原画originaux multiples〉の試みもおこなった。47年以降欧米各地を旅行し,59年来日。60年にベネチアビエンナーレ大賞を獲得した。
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百科事典マイペディア 「フォートリエ」の意味・わかりやすい解説

フォートリエ

フランスの画家。パリ生れ。ロンドンのローヤル・アカデミーに学ぶ。1928年友人のA.マルローの依頼によりダンテ《神曲》地獄篇のリトグラフによる挿画を制作。1945年《人質》の連作を手がけ,評論家ミシェル・タピエによってアンフォルメル先駆者とされた。絵具をパレットナイフで塗り重ねた厚いマチエールに特徴がある。1950年ころからは1作品につき300点以上制作する〈複数原画〉を試みた。1960年ベネチア・ビエンナーレ絵画大賞。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フォートリエ」の意味・わかりやすい解説

フォートリエ
Fautrier, Jean

[生]1898.5.16. パリ
[没]1964.7.21. パリ郊外シャトネーマラブリー
フランスの画家。ロンドンのロイヤル・アカデミーとスレード・アカデミーで絵を学び,第1次世界大戦後パリに定住。 1923年表現主義的具象画で最初の個展を開く。その後一時絵画から遠ざかり,スキー教師として生計を立てた。第2次世界大戦後『人質』 (1945) の連作で再デビューし,絵具を押固めたような作品が注目され,フランスのアンフォルメルの重要な確立者の一人となった。以来,画面に種々の素材でレリーフのような地を作り,そこに輝かしい色を塗って物質感を強調する仕事を続けた。 59年来日して個展を開催。 60年ベネチア・ビエンナーレで大賞を受賞。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォートリエ」の意味・わかりやすい解説

フォートリエ
ふぉーとりえ
Jean Fautrier
(1898―1964)

フランスの画家。パリ生まれ。父親の死後ロンドンに行き、ロイヤル・アカデミーなどで美術教育を受ける。1917年応召されフランスに戻る。21年ジャンヌ・カステルの支持を得て最初の油彩画を描く。28年リトグラフによるダンテ『地獄編』の挿絵を制作し、このころから抽象的な傾向をみせるようになる。34年フランス・アルプス山麓(さんろく)でスキー教師をして生活。40年パリに戻り、42年から44年にかけて「人質」シリーズを制作。この作品は、45年に発表され、アンフォルメル絵画の先鞭(せんべん)としてヨーロッパに影響を与え、入念な厚塗りと繊細な色彩は彼の絵画の特徴となった。49年から53年にかけて作品の複数印刷や「複数原画」の制作に専念する。60年ベネチア・ビエンナーレで大賞を受賞した。シャトネ・マラブリで没。

[徳江庸行]

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