フォシヨン(英語表記)Henri Focillon

改訂新版 世界大百科事典 「フォシヨン」の意味・わかりやすい解説

フォシヨン
Henri Focillon
生没年:1881-1943

フランスの美術史学者。ディジョン生れ。版画家ビクトル・フォシヨンVictor F.を父にもち,豊かな芸術的環境の中で育つ。パリのエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)で古典文学を学んだのち,1913年リヨン大学の近代美術史講座の教授となり,同時にリヨン市立美術館長に就任。16年ピラネージに関する博士論文を提出。24年ソルボンヌに招かれて,É.マール後任として中世美術史の教授となる。この職にあった12年間に,中世および近代美術に関する重要な著作を次々と発表。37年コレージュ・ド・フランスの教授となるが,40年第2次大戦の勃発とともにアメリカに移住イェール大学考古学・美術史講座を担当する一方,〈自由フランス〉の支持者として政治の場で活躍した。フランスの解放をまたずにアメリカで客死。代表的著作に,美術史の大きな流れを自律的な生命体としてとらえようとした美術理論《形の生命》(1934),《19・20世紀ヨーロッパの絵画》(1927-28),中世美術を体系的に把握した《西欧の芸術》(1937),《ロマネスク彫刻》(1932)などがあり,《北斎》(1914),《仏教美術》(1921)も知られる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォシヨン」の意味・わかりやすい解説

フォシヨン
ふぉしよん
Henri Joseph Focillon
(1881―1943)

フランスの美学・美術史学者。父ビクトル(1849―1916)は腐食銅版画エッチング)家として知られ、同時代の画家の作品の複製をつくっていた。その影響もあって版画研究が出発点となった。高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)で学び、のちリヨン大学、パリ大学などの教授を務め、第二次世界大戦中はアメリカに渡ってエール大学で考古学と美術史を講じ、同大学の所在地ニュー・ヘブンで没した。彼の美学は、つねに技法について顧慮し、作品をつくる芸術家が技法に対するのと同じ方向で、課題に向かって作品を解釈し、その本質に迫ろうとした。美術史研究の範囲も広く、中世から近代・現代にまで及び、後進への影響も大きい。主著『形の生命』(1934)、『西欧の芸術――ロマネスク、ゴシック』(1938)のほか、『仏教芸術』(1921)、『19、20世紀ヨーロッパ絵画史』(1928)などがある。

[鹿島 享]

『神沢栄三・長谷川太郎他訳『西欧の芸術1 ロマネスク』上下(1976・鹿島出版会)』『神沢栄三・長谷川太郎他訳『西欧の芸術2 ゴシック』上下(1976・鹿島出版会)』

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百科事典マイペディア 「フォシヨン」の意味・わかりやすい解説

フォシヨン

フランスの美術史家。ディジョン生れ。父は版画家。1913年リヨン大学教授となり,1925年ソルボンヌに招かれマールの後任として中世美術史を講じた。1938年コレージュ・ド・フランスの教授となるが第2次大戦の勃発にともない1940年米国に移ってイェール大学で教鞭をとった。中世および近代芸術に関する重要な著作を発表。主著に《19・20世紀ヨーロッパの絵画》(1927年―1928年),《ロマネスク彫刻》(1931年),《形の生命》(1934年)などがある。《北斎》(1914年),《仏教美術》(1921年)も知られる。J.バルトルシャイティスは娘婿。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フォシヨン」の意味・わかりやすい解説

フォシヨン
Focillon, Henri-Joseph

[生]1881.9.7. ディジョン
[没]1943.3.3. ニューヘーブン
フランスの美術史家。版画家 V.フォシヨンの子で,エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) で学び,作者の地位や創造性を追究し,中世芸術を体系化した。 1913年リヨン大学,24年パリ大学教授となり,コレージュ・ド・フランスの教授を経て,39年にアメリカのエール大学に招かれ,以後は没するまで同大学で教えた。主著『仏教美術』L'art bouddique (1921) ,『北斎』 (24) ,『形の生命』 Vie des Formes (34) ,『西欧の芸術』L'art d'occident (38) 。

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世界大百科事典(旧版)内のフォシヨンの言及

【古典主義】より

ウェルフリンは,その《美術史の基礎概念》(1915)において,〈古典主義〉と〈バロック〉の様式上の特質を,〈線的と絵画的〉〈平面性と奥行性〉〈閉ざされた形式と開かれた形式〉〈多様性と統一性〉〈絶対的明瞭性と相対的明瞭性〉の5項の対概念によって分析,それぞれ前者を古典主義の,後者をバロックの特色であるとした。ウェルフリンはこの分析を,16世紀(古典主義)と17世紀(バロック)の建築,絵画,彫刻について行ったが,フォシヨン(《形体の生命》1934)は,それをさらに発展させて,〈アルカイク様式〉から〈古典主義様式〉を経て〈バロック様式〉へと展開していく一般的な様式発展のなかに位置づけた。これにより,古典主義は,限られた地理的,時代的枠組みのなかだけにとどまるものではなく,ある一定の様式上の特質を備えたあらゆる美術に適用される概念となった。…

【バロック美術】より

…第2の傾向は,人類の歴史を通じて恒常的に〈古典主義〉と対立する反古典的なスタイルがあるとして,普遍的な概念としてバロックを定立させる見方であり,スペインのドールスE.Dorsによる《バロック論》(1945)がその代表的著作である。フォシヨンもまた,あらゆる文化において古拙,均衡,過剰の3段階があり,バロックはその最終段階にあたると考えた(《形の生命》1934)。第3の見解は,バロックをマニエリスムの終結から,新古典主義の開始にいたるまでの歴史的な時代,およびこの時代の文化,芸術についてのみ,適用するというものであり,これは,マニエリスムの再発見と再評価をまって,16~17世紀の歴史的事実とそれについての判断がしだいに明確になった20世紀後半において,ようやく優勢を占めてきたものである。…

【バロック文学】より

…文学においてバロックの概念は,20世紀,特に1910‐40年の間と60年代に,文学批評家が現代への問題意識をふまえ,16,17世紀西欧においてマニエリスムに続いて興った激情的かつ力動的な,多くの場合反古典主義的色彩を帯びた文学の傾向を,美術との関連の中でより鮮明に把握するために,美術史より導入したものである。E.オルス(ドールス),H.フォシヨンらはこの概念を,現代をも含めた他世紀の同種の傾向に適用し,また大部分の批評家がその概念の意味範囲を文体から主題,象徴へと拡大している。その理論化は多岐にわたり,共通尺度となる定義づけがないのが現状である。…

【美術史】より

… これらの基礎の上に,20世紀の美術史は,固有の領域を持つ独立した学問として,きわめて多面的な発展を見せた。A.リーグルは,《様式の問題》(1893)や《晩期ローマ工芸美術論》(1901)において対象を西欧以外の工芸の分野にまで一挙に拡大するとともに,文様の発展の法則を探り,H.ウェルフリン(《美術史の基礎概念》1915)やH.フォシヨン(《形体の生命》1934)は,様式分析とその展開の跡づけのためのきわめて有効な方法論を提出した。他方,É.マールの図像学的研究,M.ドボルジャークの精神史的研究,A.ワールブルク,E.パノフスキーのイコノロジー研究(図像学)は,作品の思想的,寓意的,象徴的意味を解読することにより,時代の精神的風土とのつながりを明らかにしようと試みた。…

【様式】より

…ウェルフリンのこの試みは,古典主義とバロックとの様式上の特色を明確ならしめるとともに,様式分析の基本的な方法論を確立したものとして,重要な意味をもっている。 その後,É.フォールや,とくにH.フォシヨンは,ウェルフリンが対立的なものとみなした古典主義とバロックとを,歴史のなかである一定の法則に従って繰り返される芸術の段階的発展のなかに位置づけ,様式のもつ歴史的,規範的性格を明らかにした。すなわち,芸術家や芸術作品は,自己の属する時代や地域の様式の規制を受けるのであり,様式は,みずから発展しながら,美術の歴史を形成する原理となったのである。…

※「フォシヨン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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