百科事典マイペディア 「フェリペ[5世]」の意味・わかりやすい解説
フェリペ[5世]【フェリペ】
→関連項目ブルボン[家]
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…このような状況の母体となったスペインの自然および17世紀までの歴史については〈イベリア半島〉〈スペイン帝国〉などの項を,また日本との関係については〈南蛮貿易〉などの項を参照されたい。
〔歴史〕
【18世紀スペイン】
現代スペインの起源は,カスティリャ国王フェリペ4世(在位1621‐65)の寵臣オリバレス伯公爵の次の言葉に集約できる。〈陛下,ポルトガル王国ならびにアラゴン王国,バレンシア王国,バルセロナ伯国の国王であられるだけではなく,“スペインの国王”として君臨されてこそ満足すべきでありましょう〉。…
…スペインにおけるハプスブルク朝(ハプスブルク家)の断絶にともない,その王位と領土の継承をめぐって,フランスとイギリス,オランダ,オーストリアなど対仏連合諸国との間で行われた戦争(1701‐14)。1700年の秋に病身で嗣子のないカルロス2世が没すると,遺言によりスペインの全領土は,フランス王ルイ14世(第1王妃がスペイン王女であった)の孫フィリップ(フェリペ5世)に譲られた。オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルド1世(在位1657‐1705)はこれを認めず,直ちにフランスと国交断絶したが,この遺贈にはフィリップがフランス王位への要求権をいっさい放棄するという条件がついていたので,かねがねスペイン領土の継承に関心をもっていたイギリスとオランダは,当面これを黙認する態度をとった。…
…フェルナンドとイサベルの婚姻は形式的には統一スペインを誕生させたが,実質的には旧アラゴン連合王国内の諸地域の自治を残した連邦国を成立させたにとどまり,当然のこととして法も中世末期のままに存置された。 スペイン法が全体として統一に向かって大きく前進するのは,18世紀初頭のフェリペ5世の政策によってである。スペイン継承戦争に際して敵側のカール陣営支持にまわった旧アラゴン連合王国に対する制裁として,その政治的自治を剝奪しカスティリャに同化させる政策がとられた。…
…しかし,第2帝政崩壊後の1871年の好機にもシャルル10世の孫シャンボール伯がオルレアン派との連合に失敗し,そのもくろみは果たせなかった。 スペインでは,フェリペ4世の長女マリア・テレジアがルイ14世の妃であったところから,ルイ14世の孫アンジュー公フィリップが王位継承権を得,ハプスブルク家出身の最後のスペイン国王カルロス2世が没すると,フェリペ5世として1700年に即位し,ブルボン朝を開いた。このブルボン王政は,ナポレオンの占領,2次にわたる共和政,フランコ独裁などにより何度か中断されながらも,現在まで続いている。…
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線状に延びる降水帯。積乱雲が次々と発生し、強雨をもたらす。規模は、幅20~50キロメートル、長さ50~300キロメートルに及ぶ。台風に伴って発達した積乱雲が螺旋らせん状に分布する、アウターバンドが線状...