ファーティマ朝(読み)ふぁーてぃまちょう(英語表記)Fāima

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ファーティマ朝」の意味・わかりやすい解説

ファーティマ朝
ふぁーてぃまちょう
ima

北アフリカより興った、イスラム教シーア派の一派イスマーイール派王朝(909~1171)。アリーと預言者ムハンマド(マホメット)の娘ファーティマ子孫を称するウバイド・アッラーは、北アフリカにおけるイスマーイール派の布教の成功と、ベルベル系のケターマ人の支援を背景として、909年にチュニジアのアグラブ朝などを倒してファーティマ朝を建て、スンニー派のアッバース朝カリフに対抗して、自らもカリフと称した。ファーティマ朝はチュニジアを根拠地として北アフリカから地中海に進出し、シチリアも征服した。第4代ムイッズ(在位952~975)のときにイスラムの中心地を目ざして東進し、969年にエジプトを占領、新都カイロを建設し、本拠をエジプトに移した。引き続きパレスチナ、シリアヒジャーズ地方をも併合し、11世紀なかばにはバグダードにまで迫ってアッバース朝を脅かした。第8代ムスタンシル(在位1036~94)の時代が最盛期であると同時に衰退の始まりで、12世紀になると、外部勢力による領土の縮小、権力闘争による内政の乱れがおこり、結局1171年にサラディンによって滅ぼされた。ファーティマ朝はイスマーイール派の王朝として熱心に布教活動に努め、学芸、文化を振興する一方、キリスト教徒やユダヤ教徒にも寛大な政策をとった。10世紀末から11世紀のエジプトは、ファーティマ朝の支配下にあって、東西貿易の繁栄、農業の発展、西アフリカとの金貿易などにより経済的に大いに栄えた。

[湯川 武]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ファーティマ朝」の意味・わかりやすい解説

ファーティマ朝
ファーティマちょう
Fāṭimid

北アフリカとエジプトを支配したイスラム王朝 (909~1171) 。歴代カリフが預言者ムハンマドの娘ファーティマの子孫と称したことからこの名がある。 909年ウバイドゥッラー・アルマフディー (在位 909~934) が,シーア派の一分派イスマーイール派伝道の成果を基盤として,北アフリカに王朝の支配権を樹立し,アッバース朝に対抗。 969年にはエジプトを征服,カイロを建設して首都とし,その後さらに領域をシリア,イエメン,ヒジャーズにまで広げて,一時は政治的,経済的,文化的にもアッバース朝をしのいだ。しかし,11世紀なかばより,内部における軍部台頭と,アッバース朝をもりたてるセルジューク朝の強盛および十字軍の進出などによって衰退し,1171年アイユーブ朝サラディンに取って代られた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ファーティマ朝」の解説

ファーティマ朝
ファーティマちょう
Fātima

909〜1171
北アフリカからエジプトを支配したシーア派イスラーム王朝
イスマーイール派のウバイド=アッラーフはムハンマドの娘ファーティマの子孫と称してチュニジアで建国した。このときアッバース朝に対抗してカリフを称した。969年エジプトを征服してカイロを建設し,のちに都とした。地中海貿易を独占し,領土はモロッコ・シチリアからシリアにおよんだ。11世紀以後,ベルベル人などの傭兵隊の専横や十字軍の圧力も加わって衰退し,アイユーブ朝のサラディンに実権を奪われて滅亡した。文化や学問が発達し,アズハル学院の建てられたカイロはバグダードに代わるイスラーム文化の中心地となった。

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百科事典マイペディア 「ファーティマ朝」の意味・わかりやすい解説

ファーティマ朝【ファーティマちょう】

10世紀初めから12世紀,エジプトを中心に北アフリカ〜シリアを支配したイスラム王朝で,最初のシーア派王朝。始祖はシーア派の一派イスマーイール派の信徒ウバイド・アッラーフ。909年アッバース朝から独立してカイロに都した。地中海・北アフリカの貿易を独占し,アズハル大学の基礎を置くなど繁栄したが,11世紀にセルジューク朝の攻撃を受け弱体化し,1171年サラーフ・アッディーンに滅ぼされた。
→関連項目アイユーブ朝エジプト(地域)

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デジタル大辞泉 「ファーティマ朝」の意味・読み・例文・類語

ファーティマ‐ちょう〔‐テウ〕【ファーティマ朝】

Fāṭima》イスラム教過激シーア派のイスマーイール派が、909年北アフリカに建てた王朝。969年にエジプトに侵入し、カイロを建設して遷都。シリアをも支配してアッバース朝に対抗したが、12世紀に入って急速に衰退。1171年、サラディンに滅ぼされた。カイロのアズハル寺院はこの王朝の創立。

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世界大百科事典 第2版 「ファーティマ朝」の意味・わかりやすい解説

ファーティマちょう【ファーティマ朝 Fāṭima】

エジプトとマグリブを中心としたイスマーイール派の王朝。909‐1171年。北アフリカのベルベルの支持を秘密運動によって結集することに成功したイスマーイール派は,アリーおよびファーティマの血を引くと称するウバイド・アッラーフ‘Ubayd Allāh al‐Mahdī(?‐934)をシリアからイフリーキーヤに招いてマフディー(救世主)とし,909年,アグラブ朝を倒してカリフに推戴した。これがファーティマ朝の始まりである。

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世界大百科事典内のファーティマ朝の言及

【イスラム美術】より

…続くアッバース朝には,サーマッラーの邸宅址の壁画がある。また,ファーティマ朝のカイロ郊外における浴場址,パレルモのカペラ・パラティーナ,ガズナ朝のラシュカリー・バーザールの宮殿址,サファビー朝のイスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮殿などの壁画が知られている。主題は,狩猟図,饗宴図など帝王主題にかかわるものが多い。…

【シリア】より

…10世紀の前半から末まで,北シリアはハムダーン朝(905‐1004)が勢力を張っていた。970年にファーティマ朝(909‐1171)がシリアに進出したが,南部と沿岸地方のみで,北部は混乱しておりビザンティン帝国がしばしば侵入してきた。このように9世紀の半ば以降,シリアはエジプトとの結びつきが強くなり,エジプトに本拠を置く勢力に支配されることが多くなった。…

※「ファーティマ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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