改訂新版 世界大百科事典 「ピョートル1世」の意味・わかりやすい解説
ピョートル[1世]
Pyotr Ⅰ Alekseevich
生没年:1672-1725
ロシア皇帝。在位1682-1725年。国家,社会の改革を強力に進めてモスクワ・ロシア末期の絶対主義化と西欧化の方向を決定的にした。北方戦争終結の1721年,インペラートル(皇帝)を称して〈大帝〉とよばれ,ロシア帝国の建設者になった。ツァーリ,アレクセイ・ミハイロビチとその後妻ナタリア・ナルイシキナの子で,異母兄弟のフョードル3世のあと10歳でツァーリとなったが,フョードルの姉ソフィア・アレクセーエブナの摂政期にはおもにモスクワ郊外プレオブラジェンスコエ村の離宮で暮らした。近くの外人集落に出入りして数学,砲術,築城術,造船術を学び,のちに近衛連隊となる〈遊戯連隊〉をつくり,船大工や操船の技術も身につけた。
1689年のソフィアの失脚後も母后が政治をみていたが,94年親政を開始するや,みずから一砲手としてトルコの要塞アゾフに遠征,急造した艦隊で96年これを下した。97-98年,250人の〈大使節団〉にその一員として加わり,オランダ,イギリスなどを歴訪し,早くからの深酒,ばか騒ぎの習慣とその野人ぶりで各国の宮廷人を驚かしながら,西方の文明と技術を貪欲に吸収し,帰国後は服装の改正,留学生の派遣,都市自治の導入,暦法と文字の改正などを行った。1700年からの北方戦争では,重税に加えて,軍隊,工場,築城,さらにペテルブルグ建設に動員された民衆の間に,ピョートル=アンチキリスト説がひろまり,アストラハンの反乱(1705-06),ブラビンの率いるドン・コサックの大反乱(1707-08)などが相次いだ。しかしピョートルは08年,県制の実施で地方の治安を強化し,12年ペテルブルグに首都を移し,面目を一新した陸軍と新設のバルチック艦隊で敵を圧倒,ニスタット講和でバルト海への進出を果たした。南方では1711年のトルコ遠征が失敗してアゾフなどを放棄したが,晩年のペルシア遠征ではカスピ海沿岸に領土を得,中央アジア,北アジアにも注意を払い,ベーリングに北太平洋探検を命じ,日本にも関心をもっていた。
軍事以外のピョートルの改革も戦争の必要によるものが多く,上記の都市自治と県制実施は徴税,徴兵の強化のためである。ロシアの世俗の学校制度とマニュファクチュア工業の基礎を築いた各種学校の設立,工場・造船所の建設,ウラル鉱山の開発も,軍幹部の養成と軍需品の自給を主目的とした。ピョートルは14年,貴族所領の一子相続制を定め,貴族子弟の教育を親の義務として彼らを国家勤務にかりたて,商工業を奨励して商人の工場主には農奴の使用も許した。1711年のトルコ遠征中,君主を代行するため元老院が設けられ,これが恒久化して貴族会議に代わる最高機関になった。またその後の中央省庁としての各種コレギア(参議会)の設置(1718-22)や19年の地方行政改革は,武官,文官,宮内官のそれぞれに14の等級を定めた官等表の制定(1722)などとともに,スウェーデン,プロイセンなどの新制度の十分な研究のうえ行われ,ロシア帝国の国家組織の基礎になった。帝国の重要な財源になる人頭税も治世末期に導入されたが,そのための課税人口調査はホロープや浮浪人をも対象としたので,20年の都市制度改革による都市住民の区分とともに,社会の身分的編成を強化するものとなった。しかし逃亡農民はこの時代にむしろ増え,人口も減少した。ピョートルはまた聖職者と教会財産に対する管理を強め,シノドも導入したが,これに協力した総主教職代行のフェオファン・プロコポビチはピョートルのため君主専制の理論家としても活躍した。ピョートルはメンシコフ元帥などの有能な協力者をもち,タチーシチェフに代表される新たな官僚も育てたが,彼の改革はあまりに急激,性急で国民に多くの犠牲を求めたので,庶民はもとより貴族の多くからも積極的な協力は得られなかった。彼は秘密警察と行政監察を強化し,近衛部隊を頼りに,貴族の勤務回避,役人の不正,民衆の抵抗とたたかった。彼に逆らって17年にウィーンに亡命した皇太子アレクセイも呼び戻されて獄死した。
ピョートルは2mをこす力持ちの大男で,晩年も発作性の持病に悩みながら国務に精励したが,24年11月たまたま浅瀬に乗りあげたボートを助けようとして水につかったため病気になり,25年1月,働き盛りの52歳で死去し,彼によくつくした皇后がエカチェリナ1世として後を継いだ。ピョートルの個性と行動力がロシア人に与えた衝撃は大きく,彼の事業の継承者を自任したエカチェリナ2世はピョートル即位100年の82年,ネバ河畔に馬上のピョートル像を建てた。この〈青銅の騎士〉をうたいあげたプーシキンをはじめ,アレクセイ・トルストイまでの多くの作家,芸術家と内外の伝記作者が彼の魅力にひかれた。思想界ではスラブ派と西欧派の論争をはじめ,絶えず〈ピョートル改革〉の意義が論ぜられた。日本でもこれが明治の文明開化・富国強兵期に一つのモデルとみなされ,欧米ではロシア,ソ連の脅威が高まるたびに〈ピョートルの遺言〉という世界征服計画なるものが想起されてきた。
執筆者:鳥山 成人
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