ピョートル(1世)(読み)ぴょーとる(英語表記)Пётр Ⅰ/Pyotr Ⅰ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピョートル(1世)」の意味・わかりやすい解説

ピョートル(1世)
ぴょーとる
Пётр Ⅰ/Pyotr Ⅰ
(1672―1725)

ロシア、ロマノフ王朝の第4代の皇帝(在位1682~1725)。大帝と称される。

[外川継男 2022年5月20日]

親政まで

皇帝アレクセイとその二度目の妃ナターリア・ナルイシュキナとの長男として生まれる。10歳のとき即位したが、異母姉のソフィアSof'ya Alekseevna(1657―1704)が宮廷革命で実権を握り、自分の弟のイワン5世Ivan Ⅴ(1666―1696、在位1682~1696)を第一皇帝としたため、ピョートルは第二皇帝となった。少年時代は母とともにモスクワ近郊のプレオブラジェンスコエ村で過ごし、しばしば外国人居留地を訪れては、算術、砲術、航海術、築城術など雑多な知識を貪欲(どんよく)に吸収した。ソフィアがクリム・ハン国に対する二度の遠征に失敗して人気を失うや、ピョートルは1689年に実権を掌握し、彼女を尼僧院に幽閉した。この時以後、イワン5世は単に名目上の共同統治者となった。1695年には、海への出口を求めて、トルコアゾフ要塞(ようさい)を攻撃した。陸からの攻撃に失敗し、急遽(きゅうきょ)ドン川上流のボロネジで艦隊をつくり、翌年海からの攻撃でアゾフを攻め落とした。1696年兄イワン5世が没し、名実ともに単独治世となった。

[外川継男 2022年5月20日]

ヨーロッパ視察

1697年には、およそ250人からなる「大使節団」をヨーロッパに派遣し、自分も名を変えてこの一員に加わった。その目的はヨーロッパ諸国と対トルコ同盟を結成することと、西欧先進諸国の優れた技術を導入することであった。第一の目的は達せられなかったが、第二の目的については、ピョートル自身、オランダやイギリスの造船所などで一職工として学び、また多くの専門家をロシアに招くことに成功した。この外国旅行中、ロシアで銃兵隊が反乱を起こしたとの知らせに接し、急ぎ帰国して反乱を厳しく鎮圧するとともに、黒幕のソフィアを尼にした。

[外川継男 2022年5月20日]

西欧化政策と海への進出

このあとピョートルは、ロシア社会の西欧化を推し進め、貴族に伝統的な長いひげを切ることと、西欧風の服装の着用を命じた。1700年からはロシア暦を改めて西暦(ユリウス暦)を採用し、また複雑な文字の簡易化を行い、1703年最初の新聞を発刊した。さらに貴族の子弟のために各種の学校をつくるとともに、1724年には科学アカデミーを創設した。一方、1700年にトルコと和を結んだピョートルは、バルト海への進出を目ざし、ポーランドデンマークと同盟してスウェーデンとの間に21年間にわたる北方戦争(「大北方戦争」ともいう)を開始した。1703年には新しく獲得したフィンランド湾のネバ川河口に新首都の建設を命じ、1712年にはこれを自らの守護聖人の名にちなんで「サンクト・ペテルブルグ」と命名、以後「ヨーロッパへの窓」とすると同時に、バルト海支配のための基地とした。1707年、ブラービンКондратий Афанасьевич Булавин/Kondratiy Afanas'evich Bulavin(1660ころ―1708)の率いるドン・コサックが反乱(ブラービン蜂起(ほうき))を起こしたが、ピョートルは翌年にはこれを鎮圧し、国内の治安対策も兼ねて全国を八つの県に分かち、県知事に大きな権限を与えた。その後スウェーデン軍はウクライナのコサックの首領マゼーパと結んで、ふたたびロシアを攻撃してきたが、1709年のポルタバの戦いでピョートルは大勝利を収め、1721年のニスタット条約でバルト海沿岸地方を獲得して北方戦争を終結した。

[外川継男 2022年5月20日]

ロシア帝国

1721年元老院はピョートルに「インペラートル(皇帝)」の称号を贈り、同時にロシアは「帝国」となった。同年ピョートルはモスクワの総主教を廃して、宗務院を設置した。これによってロシア正教会は、皇帝の任命する宗務院長官の監督下に置かれることになった。ピョートルは、国の財政的基礎を固めるため、1723年に人頭税の制度を設けた。これは農奴農民の逃亡を防ぐ旅券制度とともに、農民の地主への隷属を一段と進めた。一方貴族に対しては、従来の世襲地と封地の区別を廃するとともに、14の「官等表」を制定して、家柄や身分に関係なく、年功と功労で出世できるように改めた。これら一連の改革は、ピョートル以前の時代から行われてきた上からの近代化を強力に推進するもので、ロシアはピョートルの時代にヨーロッパの列強の一つにのし上がった。しかし、他方では貴族と民衆の双方に大きな負担をかけ、その恨みを買うところとなった。

[外川継男 2022年5月20日]

『阿部重雄著『ピョートル大帝――ロシアのあけぼの』(1960・誠文堂新光社)』『木崎良平著『ピーター大帝――ロシア帝制の確立』(1971・清水書院)』『クリュチェフスキー著、八重樫喬任訳『ロシア史講話 第4巻』(1983・恒文社)』『鳥山成人著『ロシア・東欧の国家と社会』(1985・恒文社)』

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旺文社世界史事典 三訂版 「ピョートル(1世)」の解説

ピョートル(1世)
Pyotr Ⅰ

1672〜1725
ロシアの絶対主義を確立したロマノフ朝の皇帝(在位1682〜1725)。有能な君主で,大帝(Velikiy)と呼ばれる
1689年実権を握り,97年西欧技術修得のためみずから使節団に加わり,オランダ・イギリス・ドイツなどをまわって造船術・砲術・風俗・制度を視察。帰国後,ロシアの西欧化を志して貴族に西欧風の服装・風俗を強制し,ユリウス暦を採用した。1700年バルト海進出を企ててスウェーデンと北方戦争を行い,ペテルブルクを建設。オスマン帝国と戦ってアゾフ海に進出し,ペルシアに遠征してカスピ海西岸を得た。中央集権の確立のために県制をしき,教会を国家に従属させた。また,マニュファクチュアを育成し,農民の労働力使用を許可するいっぽう,農奴身分を固定化させて地主権力を強化した。彼によってロシアは初めてヨーロッパの強国となり,列強に対抗する基礎がつくられた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

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