旺文社世界史事典 三訂版 「ビザンツ帝国」の解説
ビザンツ帝国
ビザンツていこく
Byzantine Empire
広義には,コンスタンティヌス1世がビザンティウムに遷都してコンスタンティノープル(現イスタンブル)と改称した後,ヨーロッパ東部に発展したローマ帝国の一般的な名称。狭義には,4世紀末にローマ帝国が東西に分かれてからギリシア化の強まる7世紀のヘラクレイオス朝までを東ローマ帝国,それ以後をビザンツ帝国と呼ぶ
395年テオドシウス1世が2人の遺子に全帝国を二分して与え,兄アルカディウスが東部のヘレニズム世界(東ローマ帝国)を,弟ホノリウスが西部(西ローマ帝国)を支配するようになった。西ローマ帝国がゲルマン民族の侵入によって衰退してからは,ローマ帝国の正統を誇ったが,ササン朝の侵入や6世紀からのスラヴ民族の南下に悩まされた。しかし,しだいにオリエント的皇帝専制政治と官僚組織を整え,6世紀半ばのユスティニアヌス帝のとき最も栄え,ササン朝に対して東境を守り,アフリカのヴァンダル王国,イタリアの東ゴート王国を滅ぼし,南スペインにも勢力を伸ばし,皇帝教皇主義の体制をつくりあげた。7世紀のヘラクレイオス朝時代になるとイスラーム勢力が進出して,シリア・メソポタミア・アフリカ・南スペインを奪われ,ブルガリアも独立,帝国は世界的性格よりも,ギリシア語を公用語化するなどギリシア的性格を強めた。この間,アナトリアとバルカン半島では軍管区(テマ)制が実施された。8世紀にはレオン3世が聖像禁止令を出してローマ教会と対立し,11世紀にはマケドニア朝の下で第2次隆盛期を迎えた。しかし,1054年にローマ教会と絶縁して以後は内紛が多く,11世紀末にはセルジューク朝に小アジアまで進出され,さらに第4回十字軍に一時首都を占領されてラテン帝国を建てられた。1261年に復活したが,その後は帝位争いや傭兵の反乱,オスマン帝国の圧迫によって衰え,1453年オスマン帝国のメフメト2世に首都を占領され滅亡した。1000年を超える帝国の歴史においては,東ヨーロッパのスラヴ人社会をキリスト教化して独自の文化圏を形成し,また貨幣経済が衰えずノミスマ金貨は基軸通貨として流通,中世の商業を支え,さらにギリシア・ローマの文化を守ってイスラーム世界や西欧に影響を与えた。
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