パーベル1世(読み)パーベルいっせい(英語表記)Pavel I Petrovich

改訂新版 世界大百科事典 「パーベル1世」の意味・わかりやすい解説

パーベル[1世]
PavelⅠ
生没年:1754-1801

ロシア皇帝在位1796-1801年。ピョートル3世,エカチェリナ2世の長男。エカチェリナは孫のアレクサンドル(後に1世)を溺愛し,彼を皇位継承者と目していた。こうした仕打ちから偏執性向を強くしたパーベルの治世は支離滅裂で,施政方針があったとすれば,母帝のそれと反対を行おうとしたことといえる。1797年1月,長子相続による帝位継承法(基本法)を定めたのも強迫観念に由来する。貴族をからかうために,日曜・祭日の農奴の賦役禁止を明文化した。これらを例外として全般的には非常識な勅令や気まぐれな行為のために,治安は乱れ,人々は不安におののいた。外政無定見で,即位後,ただちにペルシアとの戦争を中止して全面的平和を宣言したが,まもなくフランス,スペインに宣戦した。しかし,ナポレオンを崇拝して彼と和し,東洋遠征計画に賛同,インド征服のためコサックを同地に派遣。1801年3月,自室で絞殺された。陰謀決行の日を定めたのは息子のアレクサンドルであった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パーベル1世」の意味・わかりやすい解説

パーベル1世
パーベルいっせい
Pavel I Petrovich

[生]1754.10.1. ペテルブルグ
[没]1801.3.24. ペテルブルグ
ロシア皇帝 (在位 1796~1801) 。ピョートル3世とエカテリーナ2世 (大帝)の間に生れ,N.I.パーニン伯の訓育を受けた。皇太子時代に母にうとまれ,そのため彼女を憎み,皇帝となってからは,彼女の行なった多くの政策を取消した。彼はロシアがフランス革命の影響をこうむることを極度に恐れ,書籍の輸入禁止など,西ヨーロッパとの文化交流を断とうとした。内政面では皇位継承を立法化するとともに,農奴の賦役を週3日に制限して,エカテリーナ2世が貴族に認めた特権を制限。外交面ではオーストリアと結んでフランスに対抗したが,のちにフランスと接近,イギリスに敵対して対イギリス貿易に依存する商人・貴族層の反感を招いた。またその神経症的猜疑心と気まぐれは多くの者を敵に回し,ついに 1801年パーレン伯に率いられた近衛士官の陰謀によって暗殺された。

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367日誕生日大事典 「パーベル1世」の解説

パーベル1世

生年月日:1754年10月1日
ロシアの皇帝(在位1796〜1801)
1801年没

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