パンクハースト

百科事典マイペディア 「パンクハースト」の意味・わかりやすい解説

パンクハースト

英国の婦人参政権運動家,社会改革家,画家。エメリン・パンクハーストの次女。マンチェスターで生まれ育ち,その後,ベネチアとロンドンで美術を学ぶ。母エメリン,姉のクリスタベルとともに婦人参政権運動に参加し,たびたび投獄された。ロンドンのスラム街イースト・エンドの労働者を組織して運動を進めようとした彼女は,母や姉の中流階級の女性を中心に据えた運動方針と対立,それまでの運動の母体であった〈女性社会政治同盟〉から除名された。1914年に第1次世界大戦が始まると,戦争支持にまわった母,姉とは別に,戦争反対を表明。また,シルビアは早い時期からロシア革命を強く支持していた。ファシズムにも強く抗議し,ムッソリーニによるエチオピア侵略(イタリア・エチオピア戦争)に対しては,英国でエチオピア支持の運動を展開,第2次大戦後エチオピアに移住した。
→関連項目サフラジェット

パンクハースト

英国の婦人参政権運動家。フェビアン協会に参加,1903年〈女性社会政治同盟〉を結成し,娘のクリスタベル,シルビア・パンクハーストなどとともに婦人参政権獲得のために激烈な運動を展開,獄中ではハンガーストライキをくり返した。しかし,1914年第1次世界大戦が始まると運動をひかえ戦争に協力。戦後は米国,カナダに渡り,1926年帰国。保守党に入党し議員候補にもなったが,選出されることなく死去した。英国で全女性に男性と同じ参政権が認められたのは,彼女の死の数週間前だった。→サフラジェット
→関連項目パンクハーストフォーセット

パンクハースト

英国の婦人参政権獲得運動家。1903年母親のエメリン・パンクハーストとともに〈女性社会政治同盟〉を結成。投獄を逃れるためにパリに居を構えて作戦指導にあたり,放火,器物損壊,演説妨害などの暴力的な手段で運動の結実を期し,〈サフラジェット〉として恐れられた。第1次世界大戦の勃発後に帰国。母と同様に戦争協力に転向し,同盟も〈女性党〉と名称を改め,1919年消滅した。以後,神秘主義的な宗教に走った。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パンクハースト」の意味・わかりやすい解説

パンクハースト
ぱんくはーすと
Emmeline Pankhurst
(1858―1928)

イギリスの戦闘的な女性参政権運動の代表者。やはり女性参政権論者で既婚女性財産法を起草した夫リチャード(1834―1898)の死後、娘クリスタベル(1880―1958)らと女性社会政治同盟を設立(1903)。これには労働者階級の女性も加わり、ことばでなく行動することをモットーに、世の関心をひくような演説妨害、破壊活動、ハンストなど激しい手段をとり、彼女自身も投獄された。彼女を中心とする運動家たちはサフラジェットsuffragette(過激な女性参政権運動家の意)として知られ、彼女はアメリカ、カナダ、ロシアで女性問題についての講演をするなど海外でも活躍した。1928年その死の数週間前に男女平等の選挙権が実現した。

[白井 厚]

『パンクハースト著、平井栄子訳『わたしの記録』(1975・現代史出版会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「パンクハースト」の意味・わかりやすい解説

パンクハースト
(Estelle)Sylvia Pankhurst
生没年:1882-1960

イギリスの婦人参政権運動家,社会改革家,画家。エメリン・パンクハーストの次女。1903年創設の婦人参政権団体〈女性社会政治同盟〉の一支部〈イースト・ロンドン連盟〉を率いる。母と姉の指導する運動はしだいに初期の労働者階級とのつながりを断ち切っていったが,彼女は終始一貫社会主義を奉じて,ロンドンの下層階級女性の間で組織的な活動を続け,のち姉により同盟を放逐された。第1次大戦勃発後の対応のしかたも母や姉とは対照的で,反戦活動を行うとともに労働婦人の立場からの婦人参政権運動を継続した。ロシア革命を支持し草創期のイギリス共産党の重要メンバーとなる。ファシズムに激しく反対。のちエチオピアに移住。
執筆者:

パンクハースト
Emmeline Pankhurst
生没年:1858-1928

イギリスの婦人参政権運動家。マンチェスター生れ。1879年,急進主義者の弁護士リチャード・パンクハーストと結婚。夫と死別(1898)後,救貧委員や戸籍吏などを務めるが,1903年に娘らと婦人参政権獲得を目ざして〈女性社会政治同盟Women's Social and Political Union〉を組織。まもなくロンドンに本部を移し,従来の穏健派の組織とは異なる種々の戦闘的ゲリラ戦術を展開し,衆目を引きつけた。だが,第1次大戦勃発とともに極端な愛国主義に走った。なお,婦人参政権は大戦中の女性の役割が高く評価されて18年に一部(30歳以上)実現した。
執筆者:

パンクハースト
Christabel Pankhurst
生没年:1880-1958

イギリスの婦人参政権運動家。エメリン・パンクハーストの長女。1903年に創設された戦闘的婦人参政権団体〈女性社会政治同盟〉の事実上の独裁的指導者。投獄を逃れて1912年以後はパリで作戦指揮に当たり,母と彼女を信奉する少数精鋭の〈サフラジェット(婦人参政権論者)〉による放火などのゲリラ戦術を展開。彼女の指導下で同盟は男性の組織との協働を拒み,性戦争の様相を強めた。第1次大戦勃発とともに帰国,母と同様愛国主義に走る。同盟は〈女性党〉と改称され,19年には解体・消滅した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パンクハースト」の意味・わかりやすい解説

パンクハースト
Pankhurst, Emmeline

[生]1858.7.14. マンチェスター
[没]1928.6.14. ロンドン
イギリスの女性参政権運動家。マンチェスターの富裕なキャラコ捺染業者の家に生まれた。フランスのパリで教育を受け,1879年結婚。女性参政権論者の夫リチャード・M.パンクハーストの影響で,1898年のリチャードの死後も女性参政権運動を展開,1903年女性社会政治同盟 WSPUを結成した。女性参政権抑圧派議員候補者の演説妨害,下院への突入の呼びかけ,ハンガー・ストライキなど,戦闘的な戦術を断行,投獄されることも再三あった。第1次世界大戦後,1918年の国民代表法を経て,1928年ついに選挙権の男女平等が達成されたが,そのための立法が通る 1ヵ月前に世を去った。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のパンクハーストの言及

【婦人参政権運動】より

…そして同年,女性は地方自治体の選挙権を,70年に教育委員会の選挙権を獲得した。 婦人参政権に対する政府の頑迷な姿勢が続くなかで,運動は二つに分裂し,97年にはM.G.フォーセットを中心に〈婦人参政権協会全国同盟National Union of Women’s Suffrage Society(NUWSS)〉が,1903年にはE.パンクハーストとその娘クリスタベルが指導する〈女性社会政治同盟Women’s Social and Political Union(WSPU)〉がマンチェスターに結成された。前者の女性はサフラジストsuffragistとよばれ,穏健な運動を,後者はサフラジェットsuffragetteとよばれ,戦闘的運動を展開した。…

※「パンクハースト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android