パプアニューギニア(英語表記)Papua New Guinea

翻訳|Papua New Guinea

精選版 日本国語大辞典 「パプアニューギニア」の意味・読み・例文・類語

パプア‐ニューギニア

(Papua New Guinea) ニューギニア島東半分、ニューブリテン島ニューアイルランド島ブーゲンビル島など大小六百余の島からなる国。イギリス連邦内の立憲君主国。銅、コーヒー、ココア、コプラ、木材などを産する。一九七五年独立。首都ポートモレスビー

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改訂新版 世界大百科事典 「パプアニューギニア」の意味・わかりやすい解説

パプア・ニューギニア
Papua New Guinea

基本情報
正式名称パプア・ニューギニア独立国Independent State of Papua New Guinea 
面積=46万2840km2 
人口(2010)=689万人 
首都=ポート・モレスビーPort Moresby(日本との時差=+1時間) 
主要言語メラネシア諸語パプア諸語,トク・ピシン,ヒリ・モトゥ,英語 
通貨=キナKina

ニューギニア島の東半部,ビズマーク諸島ブーゲンビル島および周辺の島々からなる国。ニューギニア島南東部にある首都のポート・モレスビーには南太平洋新興独立国のエリートたちが集まるパプア・ニューギニア大学がある。天然資源に恵まれた国で,銅をはじめ金,銀,石油,木材などが豊富であり,南太平洋随一を誇るコプラ,ヤシ油の産出地でもある。

ニューギニア島の中央を東西に山脈が走っており,分水嶺を形成している。主たる山脈はスター山脈,ヒンデンブルグ山脈,ビズマーク山脈,オーエン・スタンリー山脈などで,最高峰はウィルヘルム山(4694m)。オーエン・スタンリー山脈を背後にするポート・モレスビー地区を除けば,1年を通じて降水量が多い。ガルフ州のキコリでは年降水量が5080mmにも達する。降水量が多いため大河も多く,ニューギニア島南部の大平原を流れるフライ川,北東部を流れるセピック川,ラム川がそれである。

住民は主としてメラネシア人パプア人であるが,混血が著しく,今日両者を区別することは困難である。都市部を除けば,人々は伝統的生活を守っており,みずからの伝統文化に強い誇りをもっている。互いに似てはいるが,それぞれ独自の文化をもった社会が言語の数だけ存在しており,人間の営みがいかに千差万別かがよくわかる。全国で数百を下らぬ数の異なった言語が話されており,共通語としてピジン・イングリッシュモトゥ語が使用されている。

 ニューギニア島北東岸沖のマヌス州にあるマヌス島では,女が外で農耕を行い,男が育児と炊事を行っており,人形に興味をもつのは女児ではなく男児である。ニューギニア島東端のミルン湾州のトロブリアンド諸島では,あらゆる男女の禁忌のなかで兄弟と姉妹のそれが最も強く,年ごろになると兄弟と姉妹は互いに顔も見ないようにしなければならない。この社会は母系制であり,子どもは母と同じ集団に属する。したがって父は子どもにとってはほかの集団に属するよそ者であり,財産その他は母方のおじから譲られる。またニューギニア島北西部の東セピック州にいるムンドゥグモール族Mundugumorでは,人々はいくつかの集団(〈紐(ひも)〉と呼ばれる)に属しているが,特異なのは,子どものうち男子は母の集団に属し,女子は父の集団に属するというルールをもっていることである。セピック地方の人々は,そのみごとな美術品によっても知られている。
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1526年にヨーロッパ人として最初にニューギニア島に渡来したのはポルトガルのJ.メネセスである。ニューギニアの名称は,1545年にこの地を探検したスペインのO.レーテスが,アフリカのギニア海岸地方の人々と身体的特徴が酷似していると感じ,〈新しいギニア〉と呼んだことによる。首都となったポート・モレスビーの名も1873年に寄港したイギリス人船長の名にちなんだものである。19世紀後半になって,ニューギニア島の西半分をオランダ(現在はインドネシア領のイリアン・ジャヤ),北東部とビズマーク諸島やブーゲンビル島をドイツ,南部をイギリスがそれぞれ領有するという分割統治が始まった。1905年にイギリス領はオーストラリア領パプアとなり,第1次大戦後ドイツ領はオーストラリアの国際連盟委任統治領とされた。第2次大戦の終了後は委任統治領はオーストラリアの国際連合信託統治領となった。51年に信託統治領とパプアを一体化した議会が設けられ,73年にはパプア・ニューギニアとして自治政府が樹立された。75年9月16日にイギリス連邦加盟の立憲君主国として完全独立を果たし,翌10月に国連に加盟した。

定員109からなる一院制の議会制民主主義を採用している。しかしこれまで統一国家を形成したことがなく,また部族主義により,中央集権化を進めるのが難しく,国内分裂を避けるために20の州に大きな地方自治権を与えている。政党政治の特徴も多党化にある。パング党,人民進歩党,人民民主運動,人民行動党,メラネシア同盟などいくつもの政党が乱立し,どこも単独では政権がとれない。そのため政権は多党の連立となり,政情は必ずしも安定していない。しかし各政党間に大きな政策上の差異があるわけではなく,部族主義が分裂の原因である。したがって政権交替はあっても政体変化にはつながらない。対外的には,近年積極的にアジア接近策を進めているが,いまでも旧宗主国オーストラリアの影響力はきわめて強い。首都には日本大使館がある。

 1988年にブーゲンビル島の銅山の土地所有をめぐって鉱山開発会社(オーストラリア資本)と土地所有者(現地人)との間に対立が起こり,これがきっかけとなって事態はブーゲンビル革命軍による独立運動に発展した。政府軍との間で戦闘が展開され,オーストラリア,フィジーなどによる平和維持軍が投入され,和平交渉も試みられたが,平和解決には至っていない。

 人口の約70%は自給自足で生活する人々であり,貨幣経済を営む人口は全体の20~30%にすぎない。完全独立後もオーストラリアをはじめ諸外国からの援助が国家財政で重要な役割を果たしている。しかし資源的には大国である。コプラ,コーヒー,カカオ豆など植民地時代からの商品作物を輸出しているが,最大の輸出産品は鉱産物である。金と1992年に生産を開始した石油が柱で,金と石油とで輸出の半分を占める。ブーゲンビル島での独立運動のため,89年に同島の銅山は生産をストップしたが,それまでは銅が輸出の約40%を占めていた。木材も重要な輸出品になっている。そのほか,外国漁船の入漁料も貴重な収入源である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パプアニューギニア」の意味・わかりやすい解説

パプアニューギニア
Papua New Guinea

正式名称 パプアニューギニア独立国 Independent State of Papua New Guinea。
面積 46万1937km2
人口 912万8000(2021推計)。
首都 ポートモレスビー

南西太平洋,オーストラリアの北方にある国。ニューギニア島東半部,ニューブリテン島ニューアイルランド島ブーゲンビル島マヌス島などの島々からなる。環太平洋造山帯に属し,地形は険しく,火山や地震も多い。熱帯気候で高温多雨であるが,ハイランド (高地地方) は比較的涼しく,霜をみることもある。ニューギニア島の南部 (旧パプア) は 1884年にイギリス領,1906年にオーストラリア領となった。ニューギニア島の北部およびその他の島々 (旧ニューギニア) は 1884年にドイツ領,1920年にオーストラリアの委任統治領,1946年に同信託統治領となった。 1949年からは両地域が一体として統治されるようになり,1964年の議会開設を経て 1973年に内政自治を獲得し,1975年独立。イギリス連邦に加入した。住民の大部分がメラネシア系のパプア族であるが,形質的文化的に地域差が大きく,言語は 700余に分かれている。公用語は英語で,ピジン語 (→リングア・フランカ ) も広く用いられる。熱帯自給農業と伝統的漁業に従事するほか,商品作物としてコーヒー,チャ (茶) ,ジョチュウギクがハイランドで,ココヤシ,カカオ,ゴムが海岸部と島嶼部で,アブラヤシがニューブリテン島西部で栽培される。このほか外国資本による資源開発が進み,ブーゲンビル島の銅,ラエ西郊の金,パプア湾岸の石油や天然ガスなどの地下資源をはじめ水産資源,森林資源が開発され,大規模な水力発電計画もある。輸出品は銅をはじめ金,コーヒー,カカオ,ココナッツ製品,木材,合板,水産物など。おもな輸出先はオーストラリア,日本,ドイツなど。ブーゲンビル島独立運動によって 1989年以後銅山は操業を停止しており,経済に大きな打撃を与えている。都市人口の割合は低い (14%〈1990〉) がポートモレスビー,ラエ,ラバウルをはじめ,主要都市への人口流入傾向がある。ラエとハイランドを結ぶ幹線道路を除き道路は局地的なものにかぎられるが,都市間の国内航空網はよく発達している。国営航空が国内各地およびオーストラリア (シドニー,ブリズベン) ,フィリピン,ホンコン,シンガポール,日本を結んでいる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パプアニューギニア」の解説

パプアニューギニア
Papua New Guinea

オーストラリアの北にあるニューギニア島の東半分と周辺の島々からなる国。1526年,ポルトガル人メネゼスがヨーロッパ人として初めて来航。19世紀後半にニューギニア島西半分はオランダ領,東北部はドイツ領(ニューギニア),東南部はイギリス領(パプア)となった。その後東部の2地域はオーストラリア領をへて1975年,パプアニューギニアとして独立した。88年よりブーゲンヴィル島の独立運動が10年あまり続いた。

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世界大百科事典(旧版)内のパプアニューギニアの言及

【オセアニア】より

…物質生活は貧困であったが,二重単系出自に基づく複雑な社会組織をつくり,トーテミズムとして知られる宗教観念を発達させていた。(2)パプア人とメラネシア人 メラネシアの住民は一般に黒色の皮膚と渦状毛もしくは縮毛を特徴とするところから,従来アフリカ黒人と同類のニグロイド人種に分類されがちであったが,最近の遺伝学的研究ではこの説は否定され,オーストラリアのアボリジニーと同じオーストラロイドに属するとされている。ただし,小地域ごとに割拠して長年月の孤立を続けたことと,後来のモンゴロイド人種との混血の程度とによって,現在の身体特徴にはかなりの地域差が認められる。…

※「パプアニューギニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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