バーンスタイン(Elmer Bernstein)(読み)ばーんすたいん(英語表記)Elmer Bernstein

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

バーンスタイン(Elmer Bernstein)
ばーんすたいん
Elmer Bernstein
(1922―2004)

アメリカの映画音楽作曲家、指揮者、ピアニストニューヨーク生まれのユダヤ人。幼いころから音楽の天分を示し、ピアニストを目ざしていたが、13歳でアーロン・コープランド才能を高く認められ、ピアノ・レッスンのための奨学金を得る。ロジャー・セッションズとシュテファン・ボルペStefan Wolpe(1902―1972)に作曲を師事したほか、ニューヨーク大学でも作曲を学んだ。第二次世界大戦中は兵役につき空軍軍楽隊のための編曲作業に従事、その間、グレン・ミラー楽団の楽曲編曲にもたずさわる。のちに空軍向けのラジオ番組の音楽の作曲をするようになり、除隊までに80本以上の番組を手がけた。除隊後はコンサート・ピアニストとして活動したが、1949年、イスラエル建国記念のラジオ番組の音楽を作曲、これが当時のコロンビア映画副社長シドニー・バックマンSydney Buchman(1902―1975)に注目され、バックマンの招きでウェスト・コーストに移住。1952年の『突然の恐怖』の音楽で注目を集めるようになり、しばらく低予算映画の仕事を続けた。

 バーンスタインの大きな転機となったのは1955年の『黄金の腕』のスコアである。ジャズ・トランペッターのショーティ・ロジャーズShorty Rogers(1924―1994)の協力を得て、ウェスト・コースト・ジャズの要素を大胆に取り込んだこの映画音楽はハリウッドの映画音楽全体に大きな衝撃をもたらし、アカデミー作曲賞にノミネートされたほか、サウンドトラック盤(MCA)がLPチャート2位を記録するなど、一般聴衆の間にもバーンスタインの名が広く知れわたるきっかけとなった。1956年には史劇大作『十戒』で大がかりなシンフォニック・スコアを作曲、名実ともにハリウッドのトップクラスの作曲家となった。200本以上におよぶ膨大な作品を作曲したバーンスタインのスタイルを要約するのは困難であるが、恩師コープランドのスタイルを踏襲した作品群が知名度も抜群に高く、演奏の機会も多い。すなわち、コープランド風のアメリカニズムとメキシコ音楽の要素をダイナミックなシンフォニック・スタイルに融合させ、西部劇音楽のスタイルを根底から変えた『荒野の七人』(1960)、やはりコープランドのアメリカニズムをオーケストラの音色という観点から再構築した『アラバマ物語』(1962)、軍楽隊のブラスセクションをパロディー化した『大脱走』(1963)などがそれである。1967年には『モダン・ミリー』でアカデミー最優秀作曲賞を受賞。また、オンド・マルトノ奏者ジャンヌ・ロリオJeanne Loriod(1928―2001)を独奏者に迎え録音した『ヘビー・メタル』(1981)でオンド・マルトノの魅力に開眼し、バーンスタインの作風が大きく変化したことは注目に値しよう。『ゴーストバスターズ』(1984)から『救命士』(1999)までの数多くの作品にオンド・マルトノを使用しているほか、演奏会用作品「オンド・マルトノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」(1983)を作曲している。

 『マイ・レフトフット』(1989)や『ランブリング・ローズ』(1991)といった人間ドラマから『僕たちのアナ・バナナ』(2000)のようなコメディ作品まで、ジャンルを問わず作曲依頼を引き受ける徹底したプロフェッショナリズムを貫いていることも特徴。『ケープ・フィアー』(1991)以降、マーティン・スコセッシの監督作を手がけることが多いことでも知られる。

 1963年から6年間、アメリカ映画芸術科学アカデミー副会長を務めるなど要職を歴任。自作以外の映画音楽の保存、普及にも積極的で、とりわけバーナード・ハーマンの未発表作品を紹介した功績は大きい。指揮者としての活動も多く、ギター奏者クリストファー・パークニングChristopher Parkening(1947― )のための「ギター協奏曲」(1999)の指揮・録音が大きな注目を集めた。

[前島秀国]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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