バーレーン(読み)ばーれーん(英語表記)Kingdom of Bahrain 英語

精選版 日本国語大辞典 「バーレーン」の意味・読み・例文・類語

バーレーン

(Bahrain) 西アジアペルシア湾の西岸にある首長国。一九七一年、イギリス保護領から独立。バーレーン島を中心とする大小三三の島々から成り、石油を産出。首都マナーマ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーレーン」の意味・わかりやすい解説

バーレーン
ばーれーん
Kingdom of Bahrain 英語
Mamlakat al-Bahrayn アラビア語

西アジア、ペルシア湾西岸のバーレーン島を中心とする大小30余りの島々からなる王国。面積は741平方キロメートル。人口74万3000(2006推計)。国名は「二つの海」を意味している。「バハレーン」あるいは「バフレーン」とする表記のほうがアラビア語には忠実である。バーレーン島は、サウジアラビアの東の沖合い約24キロメートルに位置し、南北約50キロメートル、東西の最大幅20キロメートルの島で、北東端に首都のマナーマがある。この島の東に国際空港のあるムハッラク島と石油製品の積出し港のあるシトラ島がある。3島は架橋によって結ばれている。気候は、砂漠地帯特有の酷暑を伴う夏が5月から10月まで続き、真夏の気温は40℃を超え、湿度は85%以上に達する。12~3月の冬は平均気温が20℃前後でしのぎやすい。年平均気温は26.5℃、年降水量は81ミリメートルである。

[高橋和夫]

歴史

遺跡の発掘調査によって古くからメソポタミアとインドを結ぶ中継貿易の重要な拠点であったことが知られてきた。聖書に記述のあるエデンの園はバーレーンであったという主張も一部ではなされている。その後ペルシア帝国の勢力圏に入るなどの経緯があって8世紀にはイスラム化した。16世紀に入るとポルトガル人がペルシア湾に姿を現すようになり、約1世紀にわたってバーレーンを支配した。

 1602年にペルシアのサファビー朝のアッバース1世(大王)がポルトガル人を追放して新しい支配者となった。これが後にイランがバーレーンへの領有権を主張する根拠となった。しかしペルシア人の支配は、1783年にアラビア半島からやってきたハリーファ家に率いられたウトゥーブ部族にとってかわられ、今日まで続くハリーファ家のバーレーン支配が始まった。その後ペルシア湾の覇者となったイギリスが、19世紀末にバーレーンを保護領とした。そして1971年にイギリスの撤退によって独立国となった。

[高橋和夫]

政治・経済・社会

憲法や議会をもち、いちおうは立憲君主制の体裁をとっていたが、1975年に議会は解散され、その後はハリーファ家の専制政治が続いた。しかし、1999年3月にハマド・ハリーファが首長につくと、二院制議会の設置、女性の参政権などの民主化推進を約束した。2002年2月には憲法を改正、首長制を廃止し、王制に移行、首長のハマドは国王となった。さらに同年10月、29年ぶりに国会議員選挙が行われた。国民議会は上院にあたる諮問院と下院で構成される。諮問院の議員定数は40で国王が任命、下院は議員定数40で直接選挙により選出される。任期は4年。外交は、アメリカ、イギリス、サウジアラビアとの協調が基本であり、1981年に発足したペルシア湾岸の君主国家のグループである湾岸協力会議(GCC)の創設メンバーでもある。また1980年代にサウジアラビアとバーレーンを結ぶ全長25キロメートルの架橋が完成して両国の関係はいっそう密接になった。

 1990~1991年の湾岸危機・戦争ではアメリカ軍を中心とする多国籍軍に参加した。また基地や施設を提供して大きな役割を果たした。対外問題としてはGCCのメンバーであるカタールと領土紛争を抱えていたが、2001年3月国際司法裁判所の判決を受けて決着した。2007年の国防予算は5億3900万ドル、兵役は志願制で総兵力は8200。陸軍6000、海軍700、空軍1500となっている。

 かつては北部におけるオアシスの水を利用したナツメヤシ栽培などの農業および漁業、天然真珠採取などが伝統的な産業であった。しかし1930年代に日本製の養殖真珠が出回るようになるとバーレーンをはじめとするペルシア湾の真珠産業は壊滅的な打撃を受けた。さらに当時の世界恐慌による需要の低下がこれに追い討ちをかけた。かわってバーレーン経済を支えたのが石油であった。1932年にアラビア半島諸国では初めての石油生産が始まった。しかしその資源は枯渇しつつあり、石油生産は1970年代には低下を始めた。バーレーンは脱石油を目ざして石油化学やアルミ精錬の分野へと産業の多様化を進めてきた。金融業にも力を入れ、一時は中東の金融センターへ成長するのではないかという期待がかけられた。しかし、石油価格の低下によるオイル・マネーの減少、近隣国アラブ首長国連邦のドバイの発展、そして伝統的に中東の金融センターであったベイルートの復興などの不利な要因が重なり合い、将来を楽観できないのが現状である。

 2008年の国内総生産(GDP)は約210億ドル(IMF推計)、1人当りGDPは2万7247ドル、経済成長率は6.3%である。貿易額(IMF推計)は輸出191億7000万ドル、輸入156億4000万ドル。おもな輸出品目(2004)は石油、アルミニウム製品、石油化学製品、衣料品、おもな輸入品目は精製用原油、自動車、電気製品、機械・輸送機器、アルミナである。

 日本への輸出は石油、アルミニウム製品など約429億円、日本からの輸入は自動車、機械製品など約968億円で、バーレーンの輸入超過になっている。

 もともとの住民の大半はアラブ人であるが、インド、パキスタン、イランなどからの外国人労働者も多く働いている。総人口の3分の1程度は外国人である。公用語はアラビア語。人口の大半はイスラム教徒であり、その多数派はシーア派である。ハリーファ家などの支配層はスンニー派に属しており、支配・被支配の関係が宗派で規定されたかたちになっている。

 人口の急増、経済の停滞などの要因によって若年層の失業が重大な社会問題となっている。そうした状況を背景に湾岸戦争後には散発的ながら暴動や爆破事件が続いている。

 教育制度は小学校6年(義務教育)、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制で、その上に大学(4年)、職業訓練専門学校(2年)がある。大学は国立のバーレーン大学、湾岸協力会議諸国管轄のアラビアン・ガルフ大学がある。

[高橋和夫]

『日本貿易振興会編・刊『貿易市場シリーズ193 バハレーン・カタル』(1979)』『チャールズ・D・ベルグレイヴ著、二海志摩訳『ペルシア湾の真珠――近代バーレーンの人と文化』(2006・雄山閣)』


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改訂新版 世界大百科事典 「バーレーン」の意味・わかりやすい解説

バーレーン
Bahrain

基本情報
正式名称バーレーン王国al-Mamlaka al-Baḥrayn/Kingdom of Bahrain 
面積=758km2 
人口(2010)=81万人 
首都=マナーマal-Manāma(日本との時差=-5時間) 
主要言語=アラビア語 
通貨=バーレーン・ディーナールBahrain Dīnār

ペルシア湾のアラビア半島側に接する大小約33の島からなる国家。首都はマナーマ。アラビア語ではバフラインal-Baḥrayn(〈二つの海〉)とよぶ。またバハレーンとも表記される。

中心は面積578km2のバーレーン島で,国際空港のあるムハッラク島と石油積出港のあるシトラSitrah島とは連絡橋で結ばれている。総面積は694km2で,日本の淡路島とほぼ同じである。全体が石灰岩質の島で植生が少ないが,北部は良質の水に恵まれており,若干の農業も営まれている。

5000年前からディルムンとよばれる古代国家があり,メソポタミアとインダス文明の中継貿易で繁栄していたことが知られており,首都マナーマ付近で古代海港都市の遺跡が発掘されている。現存する最古の住民は,前6世紀のネブカドネザル2世時代に,イラクから来たアラブであるといわれる。1521年から1602年まではポルトガル人によって占領されたが,その後イランのサファビー朝の支配下にはいり,さらに1783年にはアラビア半島から来たウトゥブ族が再びアラブの支配権を取り戻し,以後ハリーファal-Khalī fa家の支配が今日まで続いている。ハリーファ家はスンナ派だが,現在ではシーア派が75%を占めている。1996年時点の推計で総人口は約59万人,そのうち63%がバーレーン人である。バーレーンは古代から貿易の要地であるのみならず,真珠採取や漁業の適地でもあり,良質の水も出るところから,つねに周辺のイラン,トルコ,オマーン,ワッハーブ派等による領有権の主張や侵攻の脅威にさらされてきたが,1861年には,イギリスがペルシア湾一帯の支配権確立のために湾岸アラブ諸部族と結んだ1820年の一般条約に参加することによって,イギリスとの関係を深めた。さらに80年と92年にはイギリスの同意なしには他国と外交関係を結んだり領土割譲をしたりしないという条約を結んで,事実上その保護下にはいった。1968年のイギリスの湾岸からの撤退の公表とともに,湾岸諸首長国による連邦結成協定が成立,バーレーンも当初その連邦に参加する予定であったが,イランがバーレーンに対する領有権を主張したこと,バーレーンが連邦議員の公選制を主張したことなどにより,結局単独で国家をつくる道を選び,1971年に独立を宣言した。なおイランの領有権の主張は,1970年の国連安保理事会による住民の意思調査に基づく決定によって放棄された。

1972年公選議員による制憲議会が召集され,73年の憲法公布をへて,同年12月には公選議員30名と閣僚とによって構成される国民議会が成立した。首長はシャイフ・イーサー・ブン・スルマーン・アルハリーファShaykh `Īsā b.Sulmān al-Khalī faで,首相はシャイフ・ハリーファ・ブン・スルマーン・アルハリーファShaykh Khalī fa b.Sulmān al-Khalī faでいずれもハリーファ家が占めている。バーレーンの近代化は,第1次世界大戦後,教育の普及,真珠産業の改善,石油開発等を軸にして進められ,1930年代以降労働運動や民族主義運動も盛んになり,貿易の中継地という開放性もあって,国民の政治意識も一般に高い。公選議会政治はこのような事情のもとに成立したのだが,労働組合の結成やインフレーションによる生活費の高騰をめぐって急進的な若手議員と政府とが対立し,75年首相は辞任,イーサー首長は首相に再組閣を命ずるとともに首長令をもって国民議会を解散して今日に及んでいる。

 1992年のクウェートでの国民議会再開をうけ,民主化要求運動が発生し,シーア派住民による権利要求運動や失業の増加による社会不安が重なり,94年からは断続的な騒乱状態が続いている。1993年に首長が議会にかわる諮問評議会を開設するが収まっていない。

バーレーンは石油が発見されたペルシア湾岸で最初の国である。1932年,カリフォルニア・スタンダード会社とテキサコ会社共有のバーレーン石油会社(1978国有化)によって石油生産が開始され,日本の養殖真珠によって打撃を受けた真珠産業に代わって経済の中心となったが,原油の埋蔵量に限界があって生産量も漸減の傾向にある。そのため石油精製事業に力を入れ,現在その原油の大半はサウジアラビアから輸入されている。また製鉄,アルミ製錬などは輸出産業になっている。バーレーンは早くから交通網と通信網の整備に努めてきたことが奏功し,内乱で機能を停止したベイルートに代わって中東の商業金融のセンターになった。なかでも産油諸国の莫大な石油収入の運用を基盤としたオフショア金融の発展は目ざましく,バーレーンは外国人の自由な金融活動の場となっている。1996年現在,これに携わるオフショア・バンキング・ユニットは100を超え,東アジアにおけるシンガポールに比肩されている。日本はバーレーンからアルミニウム,重油,揮発油を輸入し,工業製品を輸出している。問題点としては若年層の失業があり,社会不安の原因になっている。
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百科事典マイペディア 「バーレーン」の意味・わかりやすい解説

バーレーン

◎正式名称−バーレーン王国al-Mamlaka al-Bahrayn/Kingdom of Bahrain。◎面積−720.14km2。◎人口−80万7000人(2010)。◎首都−マナーマal-Manama(18万人,2006)。◎住民−アラブ85%,ほかにイラン人,パキスタン人など。◎宗教−イスラム(シーア派60%,スンナ派40%)。◎言語−アラビア語(公用語)。◎通貨−バーレーン・ディナールBahrain Dinar。◎元首−首長,ハマドHamad bin Isa al-Khalifa(1949年生れ,1999年3月即位,2002年国王を宣言)。◎首相−ハリーファKhalifa bin Salman al-Khalifa(2002年11月発足,2006年12月第2次発足)。◎憲法−1973年12月発効。2002年2月改正憲法公布。◎国会−二院制。上院(定員40,国王が任命,任期4年),下院(定員40,任期4年)(2011)。◎GDP−158億ドル(2006)。◎1人当りGDP−1万6681ドル(2004)。◎農林・漁業就業者比率−1.3%(1997)。◎平均寿命−男74.2歳,女77.4歳(2007)。◎乳児死亡率−9‰(2010)。◎識字率−91%(2008)。    *    *バハレーンとも。西アジア,ペルシア湾西岸,カタール半島に近いバーレーン島など8島からなる首長国。漁業と真珠採取が主要な生業であったが,1932年バーレーン島アワリー油田発見後急速に発展,1957年ころから空港,港湾,病院,学校などの建設を含む開発計画を推進し,近年は従来の石油枯渇を視野に石油関連以外の産業の発展にも力をいれ,世界最大の産油国である隣国サウジアラビアとの友好関係を活かして中東の金融センターをめざしている。現在のハリーファ首長家による支配は18世紀後半に始まり,1880年英国の保護下に入った。1968年に英国軍のスエズ以東撤退が発表されると,バーレーンを含む湾岸の9首長国は連邦結成協定を結んだ。しかし主導権争いから,バーレーンは1971年に単独で独立する道を選んだ。1973年に憲法が発効して立憲君主制をとったが,事実上は首長家の専制下にある。2002年2月,憲法改正により国名をバーレーン国からバーレーン王国に改め,首長ハマドが国王であることを宣言。1975年以来国会が解散されたままであったが,2002年10月下院選挙が実施された。2006年11月の下院選挙で,女性候補が初めて当選。2011年2月,エジプトの反政府デモに呼応して民主化を求めるデモが起こり,警察・治安部隊と衝突,死傷者が出たことでデモが拡大。当初のデモ拡大に,若者たちの間でフェイスブックやツイッターが使われジャスミン革命の一環と報じられた。穏健シーア派の最大野党ウィファークをはじめとする野党もデモ支持を打ち出した。治安部隊がデモ隊に発砲し武力行使による強権的な鎮圧策に出たことで,政治改革をもとめて始まったデモは,一部に王制打倒のスローガンも含みはじめた。この背景には,国民の多数を占めるシーア派を王室を含む少数のスンニ派の支配層が押さえ込み,富と権力を独占してきたという,国民の不満がある。2011年3月,政府は非常事態を宣言,湾岸協力会議に軍隊の派遣を要請,湾岸諸国会議はサウジアラビアを中心とする軍を送った。政府は民主化要求に一部譲歩の姿勢を見せたが,4月,反体制シーア派の背後にイランの支持があるとし,警察・治安部隊による弾圧をさらに強化,ウィファークの解党に着手した。反政府側は,民主的な首相選出や選挙に基づく下院の大幅な権限強化を求めているが,王室・政府が一定程度の譲歩を認めつつ,デモ弾圧の強硬策を続けるのは,国民の多数を占めるシーア派が実権を握ることへの危機感からで,スンニ派王室が統治するサウジアラビアなどの湾岸諸国と,米第5艦隊司令部があるバーレーンの政治的混乱を恐れる欧米諸国の利害は一致しており,民主化勢力への国際的な支持はきわめて限定的である。2012年4月・5月にも大規模な反政府デモが発生し政府は徹底弾圧の姿勢で臨み,大量逮捕・拘留,解雇がなされた。2012年1月,ハマド国王は,2011年に提唱した〈国民対話〉を実行すると声明,下院の権限強化し,憲法を改正する旨立法府に指示し,同年5月,憲法改正案を承認した。2013年2月には,王のよびかけにより,政府・議会・反体制派政治団体などの代表者を含む国民対話が実施された。しかしこうした手法で,シーア派の多数の民衆の不満が解消されるかどうか疑問視する声も多い。2014年9月,米国主導の対ISの有志連合の一員として,サウジアラビア,アラブ首長国連邦,ヨルダン,カタールとともに空爆作戦に参加。2015年3月,イエメンの内戦では反政府シーア派武装組織フーシ派に対し,サウジアラビアが主導する空爆作戦に湾岸諸国とともに参加。

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知恵蔵 「バーレーン」の解説

バーレーン

西アジアのイスラム王国。ペルシャ湾の西岸に位置し、首都マナマのあるバーレーン島など33の島からなる。国名のバーレーンは、淡水(地下水)と塩水(海水)の「複数の海」という意味。面積は約700平方キロメートルで、東京都の3分の1程度に過ぎない。人口110万人(2008年現在)のうち、アラブ系住民は6割ほどで、残りはインド人、パキスタン人、フィリピン人など。宗派別では、シーア派が約7割を占める。
国の経済は、1932年に油田が発見されて以来、原油の輸出に依存してきた。しかし埋蔵量が乏しいため、70年代から金融業、石油化学、アルミニウム精製、F1誘致による観光業等へと多角化を図り、石油依存体制からの脱却を進めている。
バーレーンは地政学的な優位性により、古代ディルムン文明の時代から海上交易の一大拠点として栄えてきた。15世紀まではペルシャやイスラムの支配を受けたが、16世紀になるとポルトガルも侵入。その占領下に置かれたが、サファビー朝ペルシャがポルトガルを追放し、1602年から王朝最盛期のアッバース1世の治世下、シーア派による支配が始まった。これ以降、シーア派が多数派となった。
しかし18世紀後半になると、アラビア半島から移住してきたスンニ派のハリファ家一族が勢力を伸ばし、1783年にはその首長が新しい支配者になった。19世紀末、近隣の湾岸諸国とともに、バーレーンは英国の保護領となったが、首長による支配体制は事実上容認され、1971年の独立後もハリファ家が権力を保持し続けた。90年代半ばには、これを不満とするシーア派住民が反政府デモを起こしている。
現在(2011年3月時点)の元首は、ハリファ家ハマド国王である。親米のハマド国王は1999年の就任以来、民主化政策を進め、2002年には憲法改正によって立憲君主制へ移行させた。これによって首長国から王国となったが、憲法には、国王が司法・立法・行政・国防軍の全権を掌握すること、その王位は世襲されることなどが規定されている。国民議会は、評議院と代議院の二院制を採用している。しかし評議院の議員(40名)は、国王に全任命権があり、国民の投票で選出される代議院も、その選挙区は王家のスンニ派に有利に区分けされている。現在、最大野党のシーア派「イスラム国民統合協会」は18議席(定数40名)に過ぎない。主要閣僚や政府の要職もスンニ派によって独占されており、雇用機会でもシーア派は不平等な扱いを受けている。近年は若者の失業問題が深刻で、多数派を占めるシーア派住民の中では、さらなる民主化要求と王制の抜本的改革を求める声が高まっている。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2011年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バーレーン」の意味・わかりやすい解説

バーレーン
Bahrain

正式名称 バーレーン王国 Mamlakat al-Baḥrayn。
面積 785km2
人口 165万(2021推計)。
首都 マナーマ

ペルシア湾の入り海バーレーン湾にある大小あわせて 30以上の島々からなる国。東のカタール半島と西のサウジアラビアのハサ地方に挟まれる。隣国カタールとは 1930年代からいくつかの地域の領有権を争ってきたが,ハワール諸島については 2001年に国際司法裁判所 ICJが正式にバーレーン領であるとの裁定をくだした。湿度は高いが降水は乏しく,ほとんど冬季に集中して年間平均 76mm。砂漠性気候であるが,バーレーン島北部,北東部に湧水があり,狭いナツメヤシや野菜園の地帯がある。そのほかの土地は植生に乏しい。住民の大多数はイスラム教徒のアラブ人で,アラビア語を使用。その他,インド人,パキスタン人,イラン人,イギリス人などが居住する。先史時代から住民がおり,おそらく前3千年紀のシュメール時代にさかのぼる遺跡があり,アッカド語文献に現れるディルムン Dilmunはバーレーンをさすとされている。諸島はペルシア,ギリシア,ローマの地理学者や歴史家によっても言及されている。7世紀のイスラムの征服以来,アラブ系イスラムの支配下にあったが,16~17世紀にポルトガル,17~18世紀にペルシアに占領された。1783年以来アラビア本土出身のハリーファ家の首長に支配されてきた。1820年,イギリスとの最初の条約が締結され,1861年イギリスの保護国となった。1971年独立を宣言,国際連合に加盟した。1932年にバーレーン島中央部にあるジャバル・ドゥハーンで石油が発見され,その利権収入が国家財政を支えており,都市の近代化が進み,医療と初等教育も無料となっている。石油の枯渇に備えて,1970年代後半からアルミニウム精錬,海外金融の推進など経済の多様化をはかっている。

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