原胤昭(読み)はらたねあき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「原胤昭」の意味・わかりやすい解説

原胤昭
はらたねあき
(1853―1942)

明治時代の代表的なキリスト教社会事業家。江戸町奉行(ぶぎょう)所与力(よりき)佐久間健叟(さくまけんそう)の三男母方の原姓を継ぐ。14歳で原家の家職を継ぎ与力となるが、維新後の1874年(明治7)キリスト教に入信。同年英書販売店十字屋を開く。1875年キリスト教主義の週刊雑誌『東京新報』を発刊、1876年京橋に私立原女学校を創立。1882年から輸出向けの錦絵(にしきえ)を刊行していたが、自由民権運動に関心をもち、1883年秋、前年福島事件に関連する錦絵を出版して新聞紙条例違反に問われ、軽禁錮3か月、罰金30円に処せられて石川島監獄に下獄した。この体験から受刑者・出獄者の保護を志す。1884年以後12年にわたり、神戸・北海道で監獄教誨(きょうかい)師を務めた。1897年には東京・神田神保町(かんだじんぼうちょう)に出獄人保護所「原寄宿舎」を創設。以後出獄者約1万人を保護、救済した。1908年(明治41)には中央慈善協会設立に尽力した。1913年(大正2)には、著書『出獄人保護』を発表した。

[小倉襄二 2018年3月19日]

『『戦前期社会事業基本文献集23 出獄人保護』(1995・日本図書センター)』『若木雅夫著『更生保護の父原胤昭』(1951・渡辺書房/複製・1996・大空社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「原胤昭」の意味・わかりやすい解説

原胤昭 (はらたねあき)
生没年:1853-1942(嘉永6-昭和17)

明治期を代表するキリスト教慈善事業家で,監獄改良,出獄人保護事業の開拓者。江戸与力の家に生まれ,その職を継ぐが,維新以後キリスト教に入信,伝道に携わった。1883年,自由民権運動の一つ福島事件に関する出版が新聞紙条例に触れ,2ヵ月の禁錮刑と罰金処分を受けた。この入獄体験は,翌年彼が教誨師となる重要な契機となった。以後10余年の監獄教誨を経験し,97年神田神保町に,東京出獄人保護会(原寄宿舎)を創設した。1900年の貧民研究会,08年の中央慈善協会の設立には,監獄改良の同志留岡幸助とともに,数少ない民間事業家の代表として参画した。同協会創設後10年間,常任理事をつとめ,13年には大著《出獄人保護》をまとめた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「原胤昭」の解説

原胤昭 はら-たねあき

1853-1942 明治-大正時代の社会事業家。
嘉永(かえい)6年2月2日生まれ。もと江戸南町奉行所与力。維新後,受洗。東京銀座に十字屋書店をひらく。明治16年新聞紙条例違反で入獄し,その体験から監獄改良をこころざし教誨(きょうかい)師をつとめる。30年出獄人保護所の原寄宿舎を設立。のち東京保護会理事長。昭和17年2月23日死去。90歳。江戸出身。本姓は佐久間。著作に「出獄人保護」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「原胤昭」の意味・わかりやすい解説

原胤昭
はらたねあき

[生]嘉永6(1853).江戸
[没]1940. 東京
プロテスタント牧師。 1874年受洗。女子教育 (原女学校) ,キリスト教書籍の出版に努めたが,新聞紙条例で下獄した経験から監獄改良,免囚保護事業に尽力した。

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