バトゥ(英語表記)Batu

改訂新版 世界大百科事典 「バトゥ」の意味・わかりやすい解説

バトゥ (抜都
)
Batu
生没年:1207-55

キプチャク・ハーン国の創始者。在位1227-55年。チンギス・ハーンの長子ジュチ次男。父の死後ハーン位を継承した(1227)。1236年から始まったモンゴル軍の西征では,総大将としてロシア東欧に侵入し,1241年のリーグニツの戦では,ヨーロッパ連合軍を粉砕した。ハンガリー攻略中に,オゴタイ・ハーンの死を知り(1242),兵を返したが,自分はボルガ下流域に建設したサライを中心に,キプチャク・ハーン国を建てた(1243)。オゴタイ・ハーンを継いだグユクの死後,モンケがハーン位に就く(1251)のを助けた。ロシアの諸侯国を圧迫して,国力の充実に努め,サイン・ハーン(賢王)と呼ばれた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「バトゥ」の解説

バトゥ
Batu

1207~55

チンギス・カンの長子ジョチの次子。1236~42年,モンゴル帝国第2代オゴデイの命でモンゴル軍の総大将として西征し,キプチャク草原,ルーシカフカースクリミア,東欧などに侵入した。オゴデイ死去の知らせに接して軍を返したがモンゴル高原に戻らず,ジョチ家一門とともにヴォルガ川下流にとどまりサライを建設した。オゴデイ家,チャガタイ家と対立し,第3代グユクを暗殺したとされる一方,トルイ家を助けモンケ即位を実現した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「バトゥ」の解説

バトゥ
Batu

1207〜55
キプチャク−ハン国の祖(在位1243〜55)
チンギス=ハンの孫で,ジュチの子。オゴタイ=ハン(太宗)の命により西方へ遠征し,ロシアに侵入してモスクワキエフを攻略した。さらにワールシュタットの戦いで勝利してポーランド・シュレジエン・ハンガリーに侵入したが,この攻略中,オゴタイ=ハンが死んだために帰還し,ヴォルガ川下流のサライに都し,キプチャク−ハン国を開いた。

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世界大百科事典(旧版)内のバトゥの言及

【キプチャク・ハーン国】より

…ロシア史ではこれを〈タタールのくびき〉と呼ぶ。国家の創設者バトゥ(在位1227‐55)はジュチの第2子で,1236‐41年に,キプチャク草原,ロシア,東欧を席巻し,ボルガ下流のサライを中心として国家の基礎を築いた。その際,長兄オルダOrdaらがジュチの本領(イルティシュ流域)を継いで国家の左翼となり,ハーン位を継承したバトゥは,弟のベルケBerkeやシバンShibanらとともに,右翼に所領を占めた。…

【タタールのくびき】より

…ロシア語のイーゴ(〈軛(くびき)〉の意)は,ラテン語のjugumに由来する。 モンゴル将軍バトゥは,征服したキプチャク・ハーンの国土と人民をしたがえ,ボルガ河口にサライの都をつくって新たにキプチャク・ハーン国を建設した。ロシアの支配にあたっては,ロシア諸公にサライ伺候を義務づけながら,各地に派したモンゴル人司政官(バスカク)に行政,徴税,軍事の権限を与えたが,ロシア人の抵抗が強く,13世紀末に司政官制度が廃されていく。…

※「バトゥ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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