ハーディング
Harding, Warren Gamaliel
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ハーディング
はーでぃんぐ
Warren Gamaliel Harding
(1865―1923)
アメリカ合衆国第29代大統領(在任1921~23)。11月2日オハイオ州生まれ。ジャーナリズムで活躍したのち政界に入り、オハイオ州上院議員(1900~04)、同州副知事(1904~06)、連邦上院議員(1915~21)を歴任。1920年の選挙で共和党の大統領候補として「平常への復帰」を掲げて当選。保守的で、実業界の利益を重視して、政治の腐敗を招き、施政期にティーポット・ドーム事件など汚職事件が頻発した。指導性に欠けたが、ヒューズ国務長官やフーバー商務長官など有能な閣僚に恵まれ、ワシントン会議(1921~22)は成功裏に終わり、国内経済も未曽有(みぞう)の繁栄に向かった。23年8月2日遊説旅行中にサンフランシスコで急死した。
[新川健三郎]
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「ハーディング」の意味・わかりやすい解説
ハーディング
米国の政治家。第29代大統領(1921年―1923年)。共和党。オハイオ州の連邦上院議員として政界に入る。〈平常への復帰〉をスローガンとして第1次大戦に疲れた選挙民の支持をえて当選。ワシントン軍縮会議など外交面での成果があったが,ティーポット・ドーム油田疑獄事件など側近の汚職事件が続発。遊説先のサンフランシスコで客死。
→関連項目クーリッジ
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ハーディング
Warren Gamaliel Harding
1865〜1923
アメリカの第29代大統領(在任1921〜23)
第一次世界大戦後,共和党から「平常に帰れ」を掲げて当選。ウィルソン前大統領の政策に反対し,自由放任主義とモンロー主義に立脚した。ワシントン会議を主催し,平和維持に努力したが,在職中,多くの疑獄事件を起こした。旅行先で急死。
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ハーディング
(Warren Gamaliel Harding
ウォーレン=ギャメイリエル━) アメリカ合衆国第二九代大統領(在任
一九二一━二三)。共和党。大企業優先の産業奨励策をとり、また太平洋でのアメリカの勢力拡大に成功。閣僚の汚職事件との関係が暴露されて非難された。(
一八六五‐一九二三)
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ハーディング【Warren Gamaliel Harding】
1865‐1923
第29代アメリカ合衆国大統領。在職1921‐23年。オハイオ州に生まれ,同州で《マリオン・スター》紙の社主として活躍。州政治から政界入りし,連邦上院議員(1915‐21)を経て,共和党から出馬し大統領となる。ハーディング内閣は,一面ではC.E.ヒューズやH.C.フーバーなど有能な閣僚に恵まれ,ワシントン軍縮会議(1921‐22)やその他外交面での成果を上げ,また第1次大戦後の不安定な経済を順調な軌道にのせることに成功した。
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世界大百科事典内のハーディングの言及
【ワシントン体制】より
…以上の対立と並行して,列国とくに日米間には大戦末期以来海軍軍拡競争が進行中であり,各国の戦後復興にとって大きな負担となっていた。ここにW.G.ハーディング・アメリカ大統領は,軍備制限と東アジア・太平洋問題のための国際会議を提唱し,日本,アメリカ,イギリス,フランス,イタリア,ベルギー,オランダ,ポルトガル,中国の9ヵ国が参加することとなった。アメリカは,日本の中国進出の一支柱であった日英同盟が1921年に満期となることに着目し,これを終了させて新たな列国関係をつくり出すことを意図して,会議を提唱したのであった。…
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