ハーカーン(読み)はーかーん

世界大百科事典(旧版)内のハーカーンの言及

【オスマン帝国】より

…16世紀後半,キプロス島の征服(1571)など若干の領土拡張がみられたが,レパントの海戦(1571)に象徴されるように,ハプスブルク王家をはじめとするヨーロッパ諸国の反撃(オーストリア・トルコ戦争)の前に,帝国の領土拡張はようやく停滞した。
[政治,行政]
 建国当初,ガージーもしくはベイbeyとよばれた支配者は,第3代ムラト1世(在位1362‐89)以後スルタンを名のったが,パーディシャーpādişāh(守護王の意),ハーカーンhākān(大ハーンの意)のごとき,ペルシア的・トルコ的称号も使われた。王位継承の規律はなく,争いが絶えなかったため,メフメト2世(在位1444‐46,1451‐81)は,スルタンの即位後の〈兄弟殺し〉を法制化した。…

【ハーン】より

…これは,イスラム世界の聖俗の支配を握っていたカリフから世俗の支配権をゆだねられた者の意味である。 モンゴル帝国でも,帝国を構成して地方を分割統治する権限を許されていた諸王家の支配者は,たとえばイル・ハーン,チャガタイ・ハーンのごとくハーンの称号を名のったが,彼らの上に立つモンゴル高原のカラコルムの最高君主はカーアーンqāān(〈カンの中のカン〉),ないしはハーカーンkhāqān(〈ハーンの中のハーン〉)と呼ばれた。 14世紀以降,モンゴル時代をすぎるとハーンは本来の意味を失い,族長層でなくとも安易にこの称号を使うようになった。…

※「ハーカーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」