ハウ(英語表記)Joseph Howe

精選版 日本国語大辞典 「ハウ」の意味・読み・例文・類語

ハウ

(Elias Howe エリアス━) アメリカの発明家。裁縫機械を研究、ミシンの原形をつくり一八四六年特許を得た。のちシンガーによって今日のミシンに改良された。(一八一九‐六七

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デジタル大辞泉 「ハウ」の意味・読み・例文・類語

ハウ(Elias Howe)

[1819~1867]米国の発明家。1845年に裁縫ミシンを完成。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハウ」の意味・わかりやすい解説

ハウ
Joseph Howe
生没年:1804-73

イギリス領北アメリカの政治家。王党派(ローヤリスト)の息子としてノバ・スコシア植民地に生まれる。正規の教育をほとんど受けず,父親の印刷業を手伝いながら独学し,1828年から《ノバスコシア人》紙を刊行。同紙のコラムとして〈立法議会観察〉を設けることで,それまでの文学への関心から政治的関心,とくに当時の政治の民主化運動への関心を強めた。36年改革派の一員としてノバ・スコシア立法議会に当選し,責任政府樹立を求める運動を展開する。ノバ・スコシアには48年,他植民地に先駆けて責任政府が実現するが,これにはハウの植民地大臣J.ラッセル卿への4通の公開状が貢献している。この後のハウの関心は鉄道建設へ向かい,50年代にはハリファックスからケベックへの植民地間鉄道建設に尽力,後の大陸横断鉄道の雛形となる構想であった。60年から63年までノバ・スコシア植民地首相を務めた後,漁業長官としてアメリカ合衆国に滞在。この間にノバ・スコシアでは彼の政敵C.タッパーによりコンフェデレーションの推進がなされたが,連邦樹立によりノバ・スコシアが中央カナダの影響下に吸収されることを恐れたハウがこれに反対したため,同植民地の同意は非常に遅れ,67年の初の総選挙でもハウの率いる反対派が圧倒的多数を占めた。しかしJ.A.マクドナルドの巧みな説得とノバ・スコシア州への助成金増額により妥協が成立し,ハウも入閣した。死の直前にはノバ・スコシア州副総督に任命された。
執筆者:

ハウ
Elias Howe
生没年:1819-67

アメリカの機械発明家。マサチューセッツ州の農家に生まれる。子どものときから機械に関心をもち,1835年綿業機械工の,また37年時計機械工の見習工となり,機械工としての腕をみがく。40年代の初めに,裁縫の機械化に関心をもち,今日のミシンの試作にとりかかる。このときハウのアイデアの基礎となったのは,子どものときから親しんでいた織機の機構である。それまでの職を辞し,44年から45年にかけて開発に専念し完成。穴のあいた針を用い,上糸と下糸をからませていく方式で,熟練した縫工の5倍のスピードで,1分間に250ステッチ進む性能をもっていた。46年に特許を取得。アメリカでのミシンへの関心の低さから,46年イギリスの製造業者に同国内での権利を譲渡し,イギリスへ渡るが契約の相手とうまくいかず,ほどなく帰国。40年代の末には,アメリカでもハウの発明を基礎にしたミシンが製造されはじめ,ハウは特許権をめぐって裁判を起こす。この裁判はアメリカの特許法史上,もっとも長いものの一つといわれ,49年から54年までつづき,ついに勝訴。なかでも有名なものはI.M.シンガーを相手とするものである。勝訴後は特許料を得,自分のミシン工場を営んだ。特許料は60年代には週4000ドルにのぼったという。
執筆者:

ハウ
Samuel Gridley Howe
生没年:1801-76

アメリカの社会改革家,医師,盲教育家。ボストン市出身。1924年ハーバード大学医学部を卒業。30年までギリシア独立戦争の犠牲者援助事業に従事。32年アメリカで最初の盲学校であるパーキンス盲学校をボストンに設立した。44年間にわたる校長生活を通じて,盲・聾など重複障害児の教育方法を開拓して世界の特殊教育の進展に貢献した。また,社会事業全般にわたるすぐれた見識から,民間慈善中心であった19世紀のアメリカ社会事業の中で公的責任の必要性を説いた。その主張に基づき,63年,アメリカで最初の公的福祉機関としてのマサチューセッツ州慈善委員会が設立され,1865-74年の間,委員長を務めた。その妻ジュリアJulia Ward Howe(1819-1910)も社会運動家で婦人問題,黒人問題を中心とする革新的な著述と社会改良運動に業績を残した。
執筆者:

ハウ
Julia Ward Howe
生没年:1819-1910

アメリカの社会改革家。ニューヨーク生れ。《リパブリック賛歌》の作詩者として有名であるが,夫とともに奴隷解放運動にも参加し,南北戦争後は婦人参政権運動,平和運動から,〈赤ん坊のために,きれいなミルクを〉の運動に至るまで,多くの改革運動に参加した。詩人,作家,演説家として多くの著作があるが,社会運動家としての活動の中に彼女の本領が最もよく発揮されている。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハウ」の意味・わかりやすい解説

ハウ
Howe, Gordie

[生]1928.3.31. カナダ,フローラル
[没]2016.6.10. アメリカ合衆国,オハイオ,トレド
カナダのアイスホッケー選手。本名 Gordon Howe。北アメリカのプロリーグ NHLでの 32年間に及ぶ現役生活を通じて,前人未到の 1767試合に出場し,25年間在籍したデトロイト・レッドウィングズを 4度のスタンリー・カップ制覇に導いた。たぐいまれなパックさばき,両手から繰り出す巧みなリストショット,伝説的な強靭さから「ミスター・ホッケー」と呼ばれた。最優秀選手 MVPに贈られるハート・メモリアル・トロフィーとシーズン得点王に贈られるアート・ロス・トロフィーを各 6回受賞したほか,20年連続でゴール数が上位 5位以内という快挙も成し遂げた。1946―47年シーズンにレッドウィングズでプロ選手としてのキャリアを開始し,最盛期の 1968―69年シーズンには 103得点を上げた。1970―71年シーズン後に引退し,レッドウィングズのフロントに入ったが,新たに発足したプロリーグ WHA(ワールド・ホッケー・アソシエーション)に移り,1973―74年シーズンからヒューストン・エアロズで競技に復帰。エアロズに相次ぐ WHAタイトルをもたらした。現役最後の 1979―80年シーズンには,フル出場で 15ゴールと 26のアシストを記録。1971年にカナダ勲章を受章,1972年ホッケーの殿堂入りを果たし,2008年 NHL功労賞の最初の受賞者となった。

ハウ
Howe, William, 5th Viscount Howe

[生]1729.8.10.
[没]1814.7.12. デボンシャー,プリマス
イギリスの軍人。アメリカ大陸でのフレンチ・アンド・インディアン戦争 (1754~63) に青年将軍として戦功を立てた。アメリカ独立戦争初頭,ボストンに籠城する T.ゲージ将軍支援に派遣され,バンカーヒルの戦いを勝ち,1776年ゲージ将軍の跡を継いで総司令官となった。独走して南方に進出,ニューヨークを落し,フィラデルフィアを占領したが,G.ワシントン軍掃滅には失敗した。この作戦のためニューヨーク北部が手薄となり,77年イギリス軍はサラトガの戦いで大敗を喫し,戦局の動向が定まった。責めを負って総司令官を辞し,本国へ帰国。 (→アメリカ独立戦争 )  

ハウ
Howe, Samuel Gridley

[生]1801.11.10. ボストン
[没]1876.1.19. ボストン
アメリカの教育家,パーキンズ盲学校の初代校長。ハーバード大学医学部に学び医師の資格を得たが,ギリシア革命運動に参加して,6年間ギリシアの軍隊で兵隊として戦い,また国土の復興作業にも挺身した。 1829年帰米,31年にボストン・ニューイングランド盲人収容所設立事業の経営に従事,盲人教育の実地調査のため渡欧し,ポーランド革命に巻込まれて逮捕,投獄されたが,32年ボストンに帰り,プレザント街の父の家で数人の盲児を教育した。これがパーキンズ盲学校の発端である。三重苦の L.ブリッジマンの教育は彼のめざましい成功の一つである。その後はもっぱら精神障害児の環境づくりと治療に関心を寄せた。熱心な奴隷廃止論者であり,また自由土地党員でもあった。

ハウ
Howe, Joseph

[生]1804.12.13. ノバスコシア,ハリファックス
[没]1873.6.1. ノバスコシア,ハリファックス
カナダの政治家。自由主義系の新聞の編集兼発行人として名をなしたのち,1836年ノバスコシア植民地下院に選出されて政界に入る。ノバスコシアにおける責任政府の樹立を強力に推進し,48年初頭にその実現をみた。 60~63年同植民地政府の首相に就任。ハウはイギリス植民地の連合としてはのちのイギリス連邦のような形態を理想としていたので,北アメリカのイギリス植民地の連合に反対し,ノバスコシアにおいて強力な反対運動を展開した。しかし,69年にはノバスコシア州への連邦政府による財政援助を条件に,連邦政府に入閣。健康を害して 73年に辞任。ノバスコシアへ帰り副総督に就任したが,数週間後に没した。

ハウ
Howe, Irving

[生]1920.6.11. ニューヨーク
[没]1993.5.5. ニューヨーク
アメリカの批評家。ニューヨーク市立大学卒業。スタンフォード大学などで教えたのち,1963年母校の教授。主著は『シャーウッド・アンダーソン』 Sherwood Anderson (1951) ,『ウィリアム・フォークナー』 William Faulkner (1952) ,『政治と小説』 Politics and the Novel (1957) ,『より魅力ある世界』A World More Attractive (1963) ,『新しきものの衰退』 Decline of the New (1970) ,『アメリカ的新しさ』 The American Newness (1986) など。

ハウ
Howe, Elias

[生]1819.7.9. マサチューセッツ,スペンサー
[没]1867.10.3. ニューヨーク,ブルックリン
アメリカの発明家。父の農場で働いていたが,製粉所や製材所で運転される機械に興味をもち,機械工となった。布を縫う機械の開発を思い立ち,実用的なミシンを完成,1846年に特許を取った。市場開拓のためロンドンに渡り,コルセット製造業の W.トマスに雇われた。2年後,トマスにイギリスでのミシン製造権を 250ポンドで売渡し,志を得ずしてアメリカに帰った。故国では,I. M.シンガーらが,許可なく彼の発明を基礎にしたミシンをつくって販売していたので特許権侵害訴訟を起し,54年訴訟に勝ち,アメリカでつくられる全ミシンの特許使用料を取ることができるようになった。

ハウ
Howe, Richard, Earl Howe

[生]1726.3.8. ロンドン
[没]1799.8.5.
イギリスの海軍軍人。 1740年海軍に入り,55年北アメリカに航海,56~63年イギリス海峡で対フランス作戦に従い,フランス沿岸で活躍。 58年長兄の死によりアイルランド系貴族のハウ子爵家を継いだ。 63~70年海軍省に勤め,75年海軍中将。 76年北アメリカ艦隊司令長官。北アメリカ植民地の独立戦争に同情をもち,78年大陸会議の委員と交渉したが失敗した。 82年イギリス海峡艦隊司令長官。 83~88年海相。 93年イギリス海峡艦隊司令長官に再任,翌 94年フランス=スペイン連合艦隊を撃破した。 88年ハウ男・伯爵家を創設。

ハウ
Howe, John

[生]1630.5.17.
[没]1705.4.2.
イギリスの指導的なピューリタン牧師。ケンブリッジとオックスフォード両大学に学び,グレートトリントンの牧師 (1654) ,O.クロムウェル家の牧師 (56) 。スチュアート家の王政復古の際に追放され,ロンドンで長老派教会の牧師となる。 1672年からは,長老派教会と会衆派教会の合同に尽力したが,成功にはいたらなかった。著書"The Blessedness of the Righteous" (68) ,"Delighting in God" (74) 。

ハウ
Howe, E(dgar) W(atson)

[生]1853.5.3. インディアナ,トリーティ
[没]1937.10.3. カンザス,アチソン
アメリカの編集者,小説家,随筆家。さまざまな職業に従事したのち,19歳で『ゴールデン・グローブ』 The Golden Globe紙を発行し,次いで『デーリー・グローブ』 The Daily Globe紙を編集,刊行しながら,中西部を写実的に描いた小説『田舎町の物語』 The Story of a Country Town (1883) を発表。ほかに,辛辣な警句を特色とする随筆,旅行記,自伝などがある。

ハウ
Howe, Mark Antony DeWolfe

[生]1864.8.28. ロードアイランド,ブリストル
[没]1960.12.6.
アメリカの作家。雑誌『若者の友』 Youth's Companionの編集長 (1888~93,99~1913) ,アトランティック・マンスリー社副社長 (11~29) ,ボストン文芸協会理事 (33) をつとめるかたわら,伝記や詩を執筆,『バレット・ウェンデルと彼の手紙』 Barrett Wendell and His Letters (24) でピュリッツァー賞を受賞。

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デジタル大辞泉プラス 「ハウ」の解説

ハウ

①《Howe》イギリス海軍の戦艦。アドミラル級。1885年進水、1889年就役。名称は18世紀のイギリス海軍提督、リチャード・ハウの名にちなむ。1910年解体。
②《Howe》イギリス海軍の戦艦。キング・ジョージ5世級(2代目)。1940年進水、1942年就役の超弩級戦艦。起工時の名称はビーティ(Beatty)。第二次世界大戦中には、北極海での船団護衛、シチリア島上陸作戦の支援などに従事。大戦末期には、沖縄の宮古島砲撃にも参加した。1950年退役、1958年スクラップ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ハウ」の解説

ハウ Howe, Annie Lion

1852-1943 アメリカの社会事業家。
1852年1月12日生まれ。フレーベル協会保母伝習学校を卒業。明治20年(1887)アメリカン-ボード(外国伝道会組織)の宣教師として来日。22年神戸に頌栄(しょうえい)保母伝習所を,ついで頌栄幼稚園を開設した。幼児教育につくし,昭和2年帰国。1943年10月25日死去。91歳。マサチューセッツ州出身。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハウ」の解説

ハウ
William Howe

1729~1814

イギリス軍人。子爵家に生まれて陸軍に入り,七年戦争でカナダを転戦。1775年アメリカ独立戦争に従軍。翌年北アメリカ派遣軍総司令官となったが,サラトガの戦いで戦闘指揮が妥協的であるとの批判を受けて辞任し,本国に帰った。兄は海軍人として活躍。

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世界大百科事典(旧版)内のハウの言及

【ユーカラ】より

…〈神々のユーカラ〉をマツ・ユーカラmat‐yukar,サコラウsakorawなどと呼ぶ地方もあるが,マツ・ユーカラは〈女のユーカラ〉の意で,道東地方では神々のユーカラは女性が伝承すべきものとされていたことからこの名が生まれた。サコラウは〈リフレーンをもつハウ(物語)〉という意味である。
[人間のユーカラ]
 巫術を使いこなす半神半人のヒーロー(ヒロイン)の物語で,《イーリアス》《カレワラ》などとともに,世界の五大叙事詩の一つに数えられる。…

【ミシン】より

…しかし特許をとっていなかったため,後日他のミシン会社と訴訟問題が発生した。またアメリカのハウElias Howe(1819‐67)はハントのものによく似たミシンを発明し,46年に特許をとった。50年I.M.シンガーは今日のミシンの基本的な構造を備えたミシンを発明し,51年に特許をとり,I.M.シンガー社(シンガー社)を設立した。…

【怒りの葡萄】より

…共和党員でありながら,ローズベルト大統領の親しい友人であったザナックは,社会奉仕に大きな関心をもち,トム・ジョードが家族と別れて去って行った後に,〈民衆は死なない〉と母親(アカデミー助演女優賞のジェーン・ダーウェル)に言わせるラストを自ら撮って付け加えたという。 《怒りの葡萄》の題名は,南北戦争をうたったアメリカの女流詩人J.W.ハウの《リパブリック賛歌》(1862)の第1連に由来し,スタインベックは当初これを小説としてではなく,〈オーキーOkie〉と呼ばれたオクラホマからカリフォルニアへ移住して行く貧民たちをテーマにした一種の〈フォト・ジャーナリズム〉の1冊として企画した。アメリカ記録映画作家の第一人者であり,スタインベックの友人でもあったペア・ローレンツ(《平原を拓く鋤》1936,《河》1937,等)のドキュメンタリズムがこの小説の作風に影響を及ぼしているという指摘の根拠もそこにあり,実際スタインベックはできあがった映画を見て〈まるでドキュメンタリーを見ているようだ〉と喜んだという。…

【ハウ】より

…アメリカの社会改革家,医師,盲教育家。ボストン市出身。1924年ハーバード大学医学部を卒業。30年までギリシア独立戦争の犠牲者援助事業に従事。32年アメリカで最初の盲学校であるパーキンス盲学校をボストンに設立した。44年間にわたる校長生活を通じて,盲・聾など重複障害児の教育方法を開拓して世界の特殊教育の進展に貢献した。また,社会事業全般にわたるすぐれた見識から,民間慈善中心であった19世紀のアメリカ社会事業の中で公的責任の必要性を説いた。…

※「ハウ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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